Kazunoriの読書記&振り返りぶろぐ

2016年卒 ビジネスパーソン3年目の(IT企業勤務)の読書記かつ、日々仕事や生活の中で感じたこと、考えたことを記していくブログです。

乃木希典の生き様からふと思う現代人の憂鬱

今日は、第三日曜日

港区スポーツセンターは、港区民に優しく、第一第三日曜日は、港区民はなんと入場無料という太っ腹なやつである。

港区スポセンのジムは、人は確かに多いけど、その分広くて器具もいっぱいあるし、申し分ない環境なので、無料日はすかさずダンベルと遊びにジムに行くのが日課だ。

ただ、今日はなんとなく天気も良いし、久しぶりにランニングでもしようかなーっと、筋トレは家の中でとどめてランニングをしに行った。

せっかくだから、行ったことのないところに行ってみようと思い、いつも自転車で行く六本木を通り過ぎ、乃木坂の方まで休み休みランニングで行った。

 


乃木坂ってなんで「乃木坂」というか知っているだろうか。

僕は、今日まで知らなかった。乃木坂と言えば、すかさず「46!」、「白石とか西野とか何とか!」しか言えなかったが、今日、乃木坂は「乃木希典」という明治維新時代の日本帝国軍の大将の名前に由来することを知った。(乃木坂は、乃木希典が自決した最後の住処が立つ坂である)

そこは、乃木神社もあるし、旧乃木邸の敷地の一部を開放して、公園であったり、小さな博物館もあった。僕はその博物館で、その「乃木希典」の生き様を目の当たりにするのである。

colorfl.net

 

詳しくはWiki、シンプルになら↑の記事を見て欲しい。

僕が、乃木氏の生き様で一番感銘を受けたのは、その死に様だ。
明治天皇の所謂告別式の日、彼は妻とともに自刃したのだ(所謂切腹

彼の生き様を追っていくと分かるこのなのだが、彼の生き様はまさに「明治天皇のため」そのものであった。

まさに明治維新の節目、西南戦争で官軍側として参戦していた彼は、天皇の分身とも考えられている軍旗を幕府側に奪われてしまい、そのことをまさにほとんど「死ぬほど」思い悩み、精神病にまでなってしまったそう。

その後なんとかドイツ留学で持ち直し、その後はその愛国精神を元に、天皇に仕え、日本帝国に仕え、日清、日露戦争では大活躍をし、息子二人は日露戦争で戦死するものの、自身は最終的には日本帝国軍の大将になったとのことだ。

そして、生きる目的であった明治天皇がこの世のなかからいなくなったのと同時に、自身も、そしてその妻も、自ら刀を懐に突き刺し、その生涯を閉じたのだ。

僕はこの生き様に「すげぇ」と感銘を受けるのと同時に、「共感できるか?」という自らが立てた問いには「共感できないな」と強く思った。

シンドラーのリスト』や、『ホテル・ルワンダ』を観た後もそうだった。
めっちゃ感動はするのだ。その主人公の生き様に。ただ、感性や時代背景が異なりすぎて、全く共感ができないのだ。

映画を観ているときに涙をしていても、その次の日にはその悲しみも感動もきれいさっぱり忘れてしまうのだ。

「だって、俺が生きてる日本そんな状況じゃねぇもん」、と思うのだ。


明治維新では、数々の若者が日本が欧米列強国からの侵略を防ぎ、軍事的強国にするためにその生命を犠牲にした。

第二次大戦時も、僕たちの祖父・祖母の時代の人が、飢えに耐えながら、数々の空襲に耐えながら、日本帝国のために生きた。

大戦後は、団塊世代が、より豊かでより幸福な日本のために、身を粉にして働いた。

そして公害や環境問題等、さまざまな成長痛に見舞われながらも、世界で2番目の富を生み出す国としての日本で、僕たちミレニアム世代が生まれた。

僕たちは、全員ではないが、基本的には衣食住にも悩まされないし、教育も施され、やれ大乱闘スマッシュブラザーズやら、やれ激闘忍者大戦やら、様々なテレビゲームに囲まれて育った。

僕たちは、「頑張らなくて良い世代」、また、「何かのために生きる必要が無い世代」とも言える。

戦時は「日本国勝利」、戦後は「高度経済成長」という共通目標があったのだが、僕らはそのようなコモンセンスは持ち合わせていない。


結果どうなるかと言うと、「将来どうすれば良いかわからない」とか、「何を目標として生きれば良いかわからない」僕のような若者が増えるのだ。

もちろん、僕らの中にも運良く生きる目的を見つけた人もいる。以前ブログで書いた気がするが、特定の「Do」のために生きている人もいる。

乃木希典は間違いなく、現代日本においても讃えられるべき、すばらしき人だが、現代においては、正直「Do」すれば偉いのか?すごいのか?って言われると、「そうとも言えないのではないか?」と思う。なぜなら、その「Do」により影響を与えられる範囲や効用が、過去にくらべ豊かな世の中だと、低減せざるを得ないと思うからだ。

では、特定の「Do」を持たない僕らはどう生きていけば良いのか?

この問いに答えはない。「お金のために生きる」とか、「恋愛のために生きる」とか、様々な答えがあると思う。

ただ僕が思うのは、「自分の好きにどれだけ正直になれるか」が、現代人がこの答えの無い世の中で幸せに生きるための最適戦略なのではないかということだ。

僕の感覚では、「好き」に理由は無いし、別にその背景もいらない。「好き」は「好き」だと思し、自分そのものの本質をそのまま映し出しているのが「好き」なのではないだろうか。

「会社が好き」、「音楽が好き」、「映画が好き」、「彼女が好き」、「仕事が好き」、「友達が好き」、「お酒が好き」、「筋トレが好き」、「家族が好き」 etc...


乃木希典にとっての「明治天皇」は、僕たちにとっての「○○が好き」でいいんじゃないだろうか。その「○○が好き」を否定せず、応援できるような環境、社会であって欲しい。

そんなことを思った日曜日だった。

 

仕事は「幸福」の一部でしかない

自己分析が進んで、だいぶ僕がこの先どう動けばいいかわかってきたところだ。

やはり人間、生きている以上は、「幸福の実現」がゴールになるのかなぁと思ってて、じゃあ今後どういう風に生きていったら「幸福の実現」というゴールが達成できるかなぁということを、これまでの経験から紐解いて考えていこうと思う。

  • 自分が価値を認める「これができるようになりたい!」ができるようになったとき。(自分がどうでも良いと思ってることについては、できるようになっても意味がない...というか、できるようにならなかった)
    (例:おしゃれしたいと思って原宿で服買っておしゃれと言われる、高校受験成功、バークレー留学実現、獲ると言った案件が獲れた、なんとなく◯◯が前よりできるようになった、事務作業はどんだけ頑張っても苦手)
  • 良い音楽を聴いているとき(または演奏しているとき)、良い仮名の作品や絵を観ているとき、もしくは自分で書くことができたとき
  • 家族と酒飲んでだらだらしているとき
  • 銭湯に入って瞑想しているとき

てな感じである。少し抽象化すると

  • なりたい自分になる:自己実現
  • 芸術に触れたり銭湯に行く:趣味(自己実現が半分入る)
  • 家族との時間:安心、所属

に分けられる。ちなみに、この中で一番容量を占めているのは「自己実現」なのだが、その本質は「末っ子で今までちやほやされ好きなことをさせてもらってたから、今後も好きなことを頑張らせてくれ。結果出たら褒めてね」という、かっこいい自己実現ではなく、むしろ結構自分勝手でちやほやされたい欲である...苦笑

しょうがない。僕は末っ子で、今まで「これ欲しい」「あれやりたい」はすべて許してくれた親の元で育ったのだから。(この経験は、僕にとってのこの上ない資産である)

通常時、僕が生きていて一番時間を割いているのは仕事で、昨年はだいたい毎日10時間~12時間していた。控えめに言っても人生の半分くらいの時間を使ってしまっている!(ちなみに、僕は毎日6時間~7時間寝ているので、仕事以外の可処分時間は平日はほとんどないのだ。)

ただ、この人生の半分の時間で実現できる幸せは、「自己実現」の一部である。一部と言ったのは、仕事は自己実現が達成できるおもしろく、刺激的なものだけでなく、時間だけがとられる事務作業も多く含まれるからだ。

単純に思うのが、「コスパ悪くない?」である。

もちろん、「コスパ悪いので仕事は減らします」とか、「僕は仕事はほどほどに、趣味に生きるのです」とかを言いたいのでなく、なんとなく自分の時間とエネルギーの大部分を占める仕事について、ちゃんとゴール、つまり「仕事は何の手段なのか」を熟考せず、とりあえずたくさんの時間をかけて仕事をしている現状を変えたいのだ。

僕は生産性を上げないといけない。

仕事は「自己実現」の手段であるので、それをい短い時間で達成できるよう工夫しないといけない。

その中で自分が向き合わないといけないのは

  • なんとなく時間はいくらでもあるという時間感覚の麻痺
  • なんでも完璧にしないといけないという無駄な完璧主義
  • どんな人からも好かれようとする意味のないお人好し

まとめると、自分の幸せに向き合う勇気を身に着けないといけないのだ。

1月7日から会社スタートだが、僕は生産性の鬼と化しないといけない。

頑張るぞ~

サイズぴったり≠洋服におけるカッコよさ

ZOZOスーツは世間を賑わせ、なんなら僕もけっこうぞっこんで、カスタムメイドのシャツやらTシャツやらジーンズやら買った。

そして先日、6月末に予約したこいつが届いたのだ。
ZOZOのカスタムオーダー2Bスーツである。

http://zozo.jp/shop/zozo/goods/32242214/


前澤代表が記者会見にて、自身のカスタムオーダースーツを来ながら発表していた2Bスーツは、まさに僕がZOZOスーツで作れるものとしてずっと待っていたもので、僕は仕事合間のランチ時間に、スマホで記者会見を見て興奮に包まれていた。

速攻ポチった。

それで、だ。

本来10月初旬に届くはずのスーツは、一回の納期延期をはさみ、12月の下旬に届くことになった。

まぁ、その時点でちょっとオコなのだが、まぁここはいいだろう。

で、だ。早速着てみたのだ。

僕がZOZOの2Bスーツを着たときの感想はこの方が代弁されている

 

www.huffingtonpost.jp


この方の記事が9月で、僕のが届いたのが12月なので、少しは改善されたのかな?と淡い希望を抱いていた僕がバカだった、、、

ZOZO2Bスーツを来た僕は、ちんちくりんだった。

これ、忘年会にそのまま来ていったら笑い取れるんじゃね?レベルでのちんちくりんだ。

「なんでこんなことになってしまったのだ...」とこのちんちくりんに2万5千円払ってしまった僕は考えた。

僕の仮説は、

ZOZOはクラシカルなファッションとは何ぞやのアルゴリズムを持ち合わせてない


である。どういうことか説明する。

2Bスーツの前に僕がオーダーしたTシャツやジーンズは、この上なくぴったりで、かつ着心地も最高。見た目も申し分なかった。

なぜなら、Tシャツやジーンズは、(もちろん人の好みにもよるが)身体のサイズとぴったりであることが特に間違えではないからだ。

だから、ZOZOスーツで計測した僕の身体にピッタリのTシャツ、ジーンズは、僕にとってかけがえのないカスタムオーダーの衣類になり得た、が。

スーツはどうだろうか?

スーツは、僕も詳しいことはよくわからないけど、身体にピッタリであることが正解という類ではないのではないかと思う。

例えば、ウエストは少し細めに作ることで肩-胸-腰のラインを立体的に見せたり、パンツは細めに作ってスリムに見せたり...

おそらく、「身体にピッタリであること」以上に重要な、スーツや洋服におけるクラシカルな法則、ルール、IT風に言うとアルゴリズムが本来あるはずで、ZOZOはそこを見つける前に、身体にぴったりであることに重点を置いて作ってしまったのだ。

そう考えると、人間がなんとなく雰囲気的に、見た目的に「かっこいい」と思うものというのは、定量化することは簡単にはできなくて、そこの感覚的な「かっこいい」が分かる人こそ、おしゃれな人なんだろうなとは思う。

もちろん、縦と横の黄金比率であったり、色相的な組み合わせのバランス等、デザインで守るべきルールは最低限あるのだろうけど、やっぱり「おしゃれ」は感覚的なものも未だに多いにのだと思う。でないと、ぶかぶかのロンTがなぜおしゃれに見えるのか説明ができない。

恐らく詳しい人からすれば、ぶかぶかロンTのかっこよさも解明できるのかもしれないが、少なくともZOZOスーツでカスタムメイドできる服作りのアルゴリズムにはその感覚的なかっこよさは加味されていない。そこが加味されない限りは、アパレル店員もスタイリストも勝機はあるぞ。と思う。

だから、かっこいい!いかしている!という感覚は、無駄にするべきでなく、自分の中で大切にするべきだ。そこがもしかしたらITに代替できず、金になる種となるかもしれないとのだ。

ただ、それも時間の問題かもしれないが。

僕が「好きなもの」について抽象化してみる

昨日の31日は、両親と婚約者の4名で、「ボヘミアン・ラプソディ」を映画館で観た。

僕は2回目で、若い時武道館で生QUEENを2回も観たという母はもう3回目らしい。

率直に言うと、僕はこの映画が好きである。

ラスト30分は涙無しには観ることができない。

最近は「抽象化」という言葉が僕の中では流行りだが、じゃあここでも僕がボヘラプを好きという気持ちを抽象化してみよう。というのがこの記事の趣旨である。

まずは、だ。僕がボヘラプでまず涙するシーンは、2回ともフレディの以下のセリフなのだ

"I decide who I am"

フレディが自身のエイズをメンバーに打ち明け、いやいや、オレは同情は求めてないし、悲劇の主人公にもならない。オレが誰だかはオレが決める。オレはパフォーマーだ。

という文脈で言うセリフである。

僕はこのセリフの中だけでなく、映画を通して語られるフレディの弱さ、迷い、自己否定を知っている。その弱さを受け入れ、克服した上で"I decide who I am"はすごく痺れる。僕は毎日のように迷っているし、自分の中で受け入れられない部分もある。そして今僕は I don't know who I am状態だ。僕は何のために生きているのか、示すことができない。

そんな僕とフレディを対比し、憧れを感じながら、自分のの弱さを受け入れ、自分の芯の上で力強く生きるフレディに涙をするのだと思う。

考えてみると、僕が本当に好きな映画、『Eternal Sunshine』や、『メッセージ』も、どちらもSFながら自己否定や悲しみ、憂い等、複雑な人間心理の中で物語が進められ、最終的には『This is the way we are/I am/ things are』と、自分や物事のありのままを受け入れ、自分の中で決めたことを貫き通すという人間の強さを感じ、「いいなぁ」と思うことが多い気がする。

媒体が転じるが、音楽も、僕はストレートな曲、わかりやすい曲よりも、複雑でうだうだしてしまいそうな曲が好きだ。

ちょっと専門的な表現になってしまうが、僕は調和された和音より不協和音が好きだし、メイジャーコードよりはマイナー・コードが好きだ。Sus4コードが来たからといって、その後解決しなくても僕は気にしない。

だいたい同じ世代で、どちらも映画音楽を良く作る、日本のポスト・クラシックの作曲家、坂本龍一久石譲であったら、久石氏がジブリの作品で創る、バッハの理論に則ったこの上なく「綺麗な」曲よりは、坂本氏が「怒り」で創ったような、全音階で創る気持ち悪くどろどろとした曲のほうが好きだ。

習字で言うと、僕は中国から来た漢字を太い筆で大きく書くよりは、日本で生まれたこの上なく繊細で細くて、弧を描く線が妖艶さを醸し出す「仮名」が好きだ。

まとめると、僕はシンプルさよりも複雑さの中に美しさを感じ、ただ強いだけでなく、弱さや自己否定の上に立つ強さに憧れるのだ。

 


僕自身も、そろそろ迷ったり、自分を否定するのは時期的にもう用無しである、と考えていて、迷いの中から生まれる本当の自分自身を見つけるために、こんな記事を公開で書いているのだが。。

メイジャーでなく、マイナーで良いし、途中で転調しても良い。そもそも調なんて制限をつけず全音を使って不協和音を奏でてもいい。

そんな曲(人生)で全然良いけど。

そろそろ「C」をドミソで全開で奏でてもいいタイミングなのではないか。

そう思うのだ。

 

添付は坂本龍一氏作曲、『怒り』のテーマ

www.youtube.com

行く年来る年に実家で ふと感じること

皆様

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

さて、僕の年末は、30から婚約者を連れて実家に帰っていた。

兄貴もロスから戻っていて、姉は旦那の実家の大宮にいたので、母方のばあちゃん含めて5名で行く年来る年を過ごしていた

なんだろう。実家というものはすごい好きだ。

というか、両親が好きだ。兄も姉も。

社会に出ると、色々な境遇の人がいて、必ずしも両親と子供との関係が愛情だけで結びついているわけでないことを知った。

それはエゴイズムだったり見栄であったり、まぁ色々あるのだが、少なくとも僕が両親と「愛」という言葉以外でしか結びつきを表現できないことは、きっとこの上なく幸せなことなんだろうと思う。

社会で結構活躍している人って、逆に不遇の境遇から反骨心と執念を糧に努力してきた人も多くて、僕みたいな人間って、周りから見るとすごく平和的でのほほんとしているんだろうけど。

こういう幼少期から恵まれた家庭環境で育ってきた僕だからこそ人に与えられるものは無いのかな? って最近考えたりする。

それは何かわからないけど。。。まぁ、不特定多数は難しいけど、目の前の人くらいには優しくできたらいいな。。と思う。

親父が来ているジャージ...それオレが中学生のときバスケ部で買った部活ジャージや...

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マスターピースはすべて「抽象化」によりスタートする

2018年の暮

ブログを更新するのも久しぶりだ。

僕は「東麻布」と言われる場所に引っ越した。

なぜこんなところに引っ越したかは、もちろん会社の移転先の近くというのもあるけど。

六本木のスタバにチャリで5分で行けるからというのが大きい。

僕は朝7時からここでコーヒーを飲みながらポスト・クラシカルの音楽を聴くのが好きで好きでたまらない。

今日はOlafure Arnaldsという人のTreeという曲を聴いていた

youtu.be

 

ふと感じたのだ。今この世界にこんなに美しい音楽がある所以

今僕が静かな街で、澄んだ空気のもとでこんなに幸福な時間が過ごせる所以

それは他でもない、音楽の父バッハのおかげなのだ。と。

バッハはなぜ「音楽の父」と言われているか。

それは今まで旋律の交わりでなかった音楽を誰にでも触れられる形で「抽象化」することに成功したからからである。

バッハが音楽を抽象化することに成功した時代、音楽は旋律の重なりで表現された。

ある旋律が複数交わり合って一つの美しいハーモニーを奏でる。教会などで児童が複数のパートにわかれて聖歌を歌っているシーンを思い浮かべたらそれに近い。

それまでの音楽が「旋律の重なり」であったものを、バッハは「和音の組み合わせ」という全く異なったアプローチで抽象化することに成功した。

誰もが「ハ長調」は小学校で学ぶし、中高でバンドをやっていたものは、CやAm、G等「コード」という言葉にも親しいのではないか。

音楽の途中途中をぶった切ったとき、そこはどの音で構成されているか?(コード=和音) 次の小節はどの音で構成されているか?(コード進行=和音進行) 曲全体として、どの組み合わせの音で構成されるのか?(調性)

上記は、現代では作曲するときにほとんど採用されるアプローチであるが、それは実はバッハが「音楽は和音の組み合わせである」という抽象化のアプローチをとったからこそ可能なのだ。

バッハ以降の数々の有名なクラシックの大家がこの和声的アプローチで様々な音楽を残したし、印象派と言われるドビュッシー等は、逆にこのバッハの理論を破る形で新たな音楽を作り出した。

ただこの印象派も、ある意味バッハが抽象化した理論の枠組み内で、ルール違反のことをやっているという意味では、やはりバッハの影響は脱していないのだ。

何が言いたいかというと、何事もイノベーションと発展のためには「抽象化」が必要であるのではないか、ということだ。

抽象化は、言葉だけ聞くとなんだか難しい響きだが、「ルール」、「定理」等といった言葉に置き換えても良いかもしれない。

僕たちは学校で色々な公式、定理を学ぶが、それはこれまでの偉大な発明家、学者さんが、多大なる研究のもと見つけ出したシンプルなルールで、そのシンプルなルールのもと色々な推察や試行ができるようになるという意味では大変便利なものだ。

企業価値=その企業が将来もたらすキャッシュフローの現在価値」

なんてその最たる例だ。このシンプルな法則をもとにどれだけの企業が上場し資金を得て、はたまたM&Aをしたりしながら更に会社を発展していっただろうか。

なんでこんなに「抽象化」を繰り返しているか。

僕は僕自身を「抽象化」したいからだ

2018年は色々あったが、本当にいろんなことに頭を悩まされ、ストレスも感じ、うだうだしてしまい、結構疲れたのだ。

もちろん悪いことばっか起こったというわけでない。

今年頭で「絶対獲る!」と意気込んだ2つの大きな案件は無事取れたし、「なんとなく海外で仕事したい!!」っと今年頭のインスタで言っていたが、どういうわけか、シリコンバレーに出張する機会も得た。

ただ、毎日毎日の経験や意思決定で、「これは自分がするべきことか、もしくはすべきでないか」とか、「これは自分が望んでいることなのか」といちいち考え悩むのが正直もう面倒くさい。やってられない。

どうしたらこの迷いをなくし、さらに自分を発展させることができるか。

それはもう自分自身を抽象化するしかない

僕は何のために生きるのか。誰のために生きているのか。僕の使命は何なのか。

このシンプルなルールを見つけ出すしかない。

そのためにこの冬休みは使おう。そんなことを今朝ふと思ったのだ。

来年の目標は

①自分の使命を見つけること
②自分の使命を全うすること
③人に優しくすること

である。

ということで来年も皆様よろしくお願いいたちまちゅ。

シルバーウィークのタイ滞在で感じた世界の経済情勢

お疲れ様です。八幡です。

いや~、本当に更新サボっていてすみません。。。忙しかったのか忙しくなかったのか、よくわからん日々が続いてます。

ただ前より、自分がやりたいことと、やるべきことは数ヶ月前に比べかなり増えました。そのToDo増加分に対し、私のCPUスペックが追いつかず、やり残しが増える→やり残しを処理するための時間が必要→思考の時間が削減→ゴールに立ち返るタイミングの減少→生産性の低下

って感じの悪循環に陥っております。。。

将来、最終的にはどのようにお金を稼いで、どのように人の役に立つかは、

  • 自分が得意なこと
  • 自分が好きなこと
  • 自分がやるべきこと

の3つが重なるところが良いなと思っているのですが、如何せんなかなか重なることがないですねぇ。。。例えば僕の得意なことは、ここではまだ秘密ですが、実は僕自身が「すごく面倒くさいなぁ」って感じちゃうものですし、好きなことはありますが、そんなんでどうマネタイズできんねんというものですし、「やるべきだ!!」っと使命感持っていることも特にないし。。。んーって感じです。

まぁ、この五里霧中(使い方合っているかな?)の中で、どうにか何者かになるために、日々仕事や趣味、人間関係の中で生きているわけなので、そんな焦んなくても良いのかなぁっと、ポジティブには考えてます。よろしくです。


ところでですね、僕たぶんあと数ヶ月で結婚すると思います。
3年前からお付き合いしている方、タイ人の女性なのですが、その両親と家族にご挨拶するためにシルバーウィークにタイに行ってきました。

前から結婚を前提にお付き合いしていた人ですが、別に結婚を宣言しに行ったわけではなく、お会いしたことなかったので、挨拶するという軽いノリで行ったのですが。。。

彼女一族勢揃い(集まったのは25人くらい。本当はもっともっといるらしい。。)でお出迎えされ、それはそれはおいしい料理とお酒をごちそうになったわけです。

もともと彼女は中華系(祖母4人が華僑)なので、親戚はほとんど皆中国系です。中国系の方の特徴かわからないのですが、何かお祝いごとや良い報せがあると、一族全員で晩餐会を行うのだとか。

「その一族のかわいい娘が、なんと日本人の彼氏を連れてくるらしい!!!」
と皆興味を持って集まってくれ、やれ「カンペー!!!カンペー(乾杯)」とわいわいしていただいたわけです。

僕はタイ語も中国語も話せないので、全然コミュニケーションが取れなかったのですが、彼女によると皆から「結婚はいつするの?」「どこでするの?」等と、質問責めになっていたとのこと。みんな喜んで結婚を前提に考えてくれるとわかったので、「じゃあ結婚していいかなー」という気持ちになり、週末は実は結婚指輪とか探してました(初めての体験なので、指輪一つ作るのも新鮮!)

さて、僕がこのブログで伝えたいのは、僕の結婚のことというより、僕がその晩餐会で感じたことです。


皆さん、スマホ、何使ってますか??

おそらくiPhoneの人がほとんどかと。僕も数ヶ月前までそうでした。

ただ、iPhoneってめっちゃ高いじゃないですか。僕はLine Mobile使っているので、携帯を変えるとなると、端末価格がそのまま初期費用としてのしかかってくる。。。

「携帯買うのに8万とかかけてらんねぇ!」っと思い、結局僕は2万円のHUAWEI nova lite 2を購入しました。

k-tai.watch.impress.co.jp

 

使ってみて、iPhoneに比べたらたしかに遅いし、初Androidともあって慣れるまで時間がかかりましたが、2万円という費用を考えたら、マジで良い買い物したなぁーって思います。中国メーカー単純にすごいなぁと感じているわけです。

さて、話は戻り晩餐会。参加メンバーは僕以外は中国系の方です。

タイ人とは言え中国系なので、HUAWEIとかZENPhoneとか使っている方多いかなぁと思ったら、

おもしろいくらい皆iPhoneX。笑

誇張表現無しで、皆iPhoneの中でもXや8Plusなど上位機種を使っているわけです。25人中20人くらいはそんな感じだったかも。ちなみに僕が以前使っていたの、廉価版のSEですよ!笑 上位機種買う金ないっての!!

正直彼女の一族、皆超お金持ちなので、高いスマホを買うのは全然納得です。ただ、高いスマホなら、ぼっちゃけサムスンとか、日本のSONYとかもあると思うんですよね。ただ、皆本当にiPhoneなんですよ。iPhoneにこだわっているとしか思えません。iPhone2台持ちという強者もいましたよ。

僕はそこに、一種のアメリカに対し、今中国人がどう感じているのかという経済情勢の構図を感じ取ったわけです。

この前、iPhoneの新機種のラインナップを見て、HUAWEIの社長が「安心した」(HUAWEIを揺るがすようなイノベーションが起こっていなかったことに対する安堵)とツイートしたように、恐らく中国人とって、アメリカはライバルでもあり、超えるべき存在でもあり、超える必然性を持つべき存在です。

そのような相手の作るガジェットを使い、いつの日かは中国の作るものが、アメリカの作るものを超えていく未来を想像しているのでしょうか。(シェア的にはHUAWEIiPhone超えしてますけど。すでに)

そんな中、「安いから」を理由にHUAWEIを使っている日本人の僕。完全に取り残されています。

そんなお金のない僕も含め、その晩餐会の中でのiPhoneの存在、それを所有する中国系の方々、その脇にいる金のない日本人の僕、が完全に世界経済の情勢の一端を写しだす鏡だったわけです。

「あんな金のない日本人と結婚して、あいつは不幸だったな」

って将来彼女が言われないようにしないとなぁって、経済的に沈みゆく日本を憂いつつ、彼女が持っているピカピカのiPhoneXを横目に見ながら、強く心に誓うのでありました。

 


終わり


まぁ確かに