Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

ほとんどの人間はあなたのことは興味ない

「周りの人は僕のことなんて興味ないんだろうなぁ。」

いつの日か、こう思うようになっていた。

つい最近のことかもしれないし、大学の後半のときだったかもしれない。あまりよく覚えていない。

寂しく聴こえるだろうか? いや、僕はこう思うことは、自分の精神衛生上とても良いことだと思っている。

逆に、「周りの人間は自分に興味があるんだろう」という前提に立った場合を考えてみたい。その時の自分から相手へのコミュニケーションの仕方はどうなるだろうか。

相手が、自分を受け入れてくれることを前提としたコミュニケーションは、特に相手にとって苦痛になるものである。相手の感情をあまり考えず、自分が伝えたいこと、すごいと思ってほしいことをつい言ってしまうからである。相手が、その話題について興味が全くないときでも、だ。

マズローという、アメリカの偉大な心理学者は、人間の欲求を5つの段階に分けた。

jibun-compass.com


その5つの段階がどのようになっているかは、↑の記事を御覧いただきたいのだが、その4段階目に「承認欲求」というものがある。

この「承認欲求」は大変やっかいなものだ。生理的欲求も、安全欲求も、社会的欲求も特に難なく満たされている現代人が、今一番満たしたいものはこの承認欲求なのではないかと思う。

「人から認められたい」「人から大切に思ってもらいたい」「「人に尊敬されたい」

こういった考えは、誰にでも隣り合わせたものだろう。
そして、「周りの人間は自分に興味があるんだろう」という前提の思考は、この承認欲求の最たる副産物であり、これは、自分だけでなく相手の神経まですり減らしてしまう大変やっかいなものだと考えている。

「周りの人が自分に興味ある」という前提のもと、「これってすごいでしょ?! 僕ってすごいでしょ?! どう思う!?」と聞いても、興味がある人ならまだしも、そうでない人は回答に困る。そして、一番つらいのは、その相手の「すごいね!!」を心待ちにしている自分自身である。

僕は、一時期そのような自分自身の承認欲求の持つどす黒い力により、僕自身の身をすり減らしてしまうような感覚を幾度となく覚えた。そして、いっそ、周りの興味の対象から自分自身を外すことにした。

そんな大層なことを言っても、未だに自分の承認欲求が無くなったとは決して思わない。こうしてブログでこんなことを書いているのも、その現れかもしれない。が、この25年の短い人生で一つ学んだことは、自身の承認欲求を飼いならすことができないと、人は幸せになれないということだ。

自分の人生が良いか悪いか、自分がすごいかクソかを決めるのは、周りではなくて僕たち自分自身だ。周りに自分の「すごさ」を評価してもらうのは、本質的ではなく、まったくもって意味がないことだと考えている。

でも、確かに自分一人の評価のみだと、この世知辛い世の中を生き抜くのにはけっこう気力がいる。そりゃ、自分以外の承認が欲しいのは当たり前だ。人間そんなに強くない。

でも僕は知っている。たとえ世界のほとんどの人が僕のことを承認してくれなかったとしても、僕の両親と、僕の恋人は、無償の愛でありのままの僕を必ず承認してくれることを。

その3つの強大な承認と、僕が僕自身に抱く承認があれば、僕は正直スーパーハッピーにずっと楽しく生きていける。そう本気で考えているのだ。そういう、本当に自分自身にとって大切な承認さえあれば、きっとなんでもうまくいくだと思う