マスターピースはすべて「抽象化」によりスタートする
2018年の暮
ブログを更新するのも久しぶりだ。
僕は「東麻布」と言われる場所に引っ越した。
なぜこんなところに引っ越したかは、もちろん会社の移転先の近くというのもあるけど。
六本木のスタバにチャリで5分で行けるからというのが大きい。
僕は朝7時からここでコーヒーを飲みながらポスト・クラシカルの音楽を聴くのが好きで好きでたまらない。
今日はOlafure Arnaldsという人のTreeという曲を聴いていた
ふと感じたのだ。今この世界にこんなに美しい音楽がある所以
今僕が静かな街で、澄んだ空気のもとでこんなに幸福な時間が過ごせる所以
それは他でもない、音楽の父バッハのおかげなのだ。と。
バッハはなぜ「音楽の父」と言われているか。
それは今まで旋律の交わりでなかった音楽を誰にでも触れられる形で「抽象化」することに成功したからからである。
バッハが音楽を抽象化することに成功した時代、音楽は旋律の重なりで表現された。
ある旋律が複数交わり合って一つの美しいハーモニーを奏でる。教会などで児童が複数のパートにわかれて聖歌を歌っているシーンを思い浮かべたらそれに近い。
それまでの音楽が「旋律の重なり」であったものを、バッハは「和音の組み合わせ」という全く異なったアプローチで抽象化することに成功した。
誰もが「ハ長調」は小学校で学ぶし、中高でバンドをやっていたものは、CやAm、G等「コード」という言葉にも親しいのではないか。
音楽の途中途中をぶった切ったとき、そこはどの音で構成されているか?(コード=和音) 次の小節はどの音で構成されているか?(コード進行=和音進行) 曲全体として、どの組み合わせの音で構成されるのか?(調性)
上記は、現代では作曲するときにほとんど採用されるアプローチであるが、それは実はバッハが「音楽は和音の組み合わせである」という抽象化のアプローチをとったからこそ可能なのだ。
バッハ以降の数々の有名なクラシックの大家がこの和声的アプローチで様々な音楽を残したし、印象派と言われるドビュッシー等は、逆にこのバッハの理論を破る形で新たな音楽を作り出した。
ただこの印象派も、ある意味バッハが抽象化した理論の枠組み内で、ルール違反のことをやっているという意味では、やはりバッハの影響は脱していないのだ。
何が言いたいかというと、何事もイノベーションと発展のためには「抽象化」が必要であるのではないか、ということだ。
抽象化は、言葉だけ聞くとなんだか難しい響きだが、「ルール」、「定理」等といった言葉に置き換えても良いかもしれない。
僕たちは学校で色々な公式、定理を学ぶが、それはこれまでの偉大な発明家、学者さんが、多大なる研究のもと見つけ出したシンプルなルールで、そのシンプルなルールのもと色々な推察や試行ができるようになるという意味では大変便利なものだ。
「企業価値=その企業が将来もたらすキャッシュフローの現在価値」
なんてその最たる例だ。このシンプルな法則をもとにどれだけの企業が上場し資金を得て、はたまたM&Aをしたりしながら更に会社を発展していっただろうか。
なんでこんなに「抽象化」を繰り返しているか。
僕は僕自身を「抽象化」したいからだ
2018年は色々あったが、本当にいろんなことに頭を悩まされ、ストレスも感じ、うだうだしてしまい、結構疲れたのだ。
もちろん悪いことばっか起こったというわけでない。
今年頭で「絶対獲る!」と意気込んだ2つの大きな案件は無事取れたし、「なんとなく海外で仕事したい!!」っと今年頭のインスタで言っていたが、どういうわけか、シリコンバレーに出張する機会も得た。
ただ、毎日毎日の経験や意思決定で、「これは自分がするべきことか、もしくはすべきでないか」とか、「これは自分が望んでいることなのか」といちいち考え悩むのが正直もう面倒くさい。やってられない。
どうしたらこの迷いをなくし、さらに自分を発展させることができるか。
それはもう自分自身を抽象化するしかない
僕は何のために生きるのか。誰のために生きているのか。僕の使命は何なのか。
このシンプルなルールを見つけ出すしかない。
そのためにこの冬休みは使おう。そんなことを今朝ふと思ったのだ。
来年の目標は
①自分の使命を見つけること
②自分の使命を全うすること
③人に優しくすること
である。
ということで来年も皆様よろしくお願いいたちまちゅ。