2025年を終え、感じること
2025年もあっという間に過ぎ去りました。
皆様にとってどんな一年でしたか??
僕にとっては、色々とこれまでに感じたことないような、人生におけるヒリヒリとした「リアリティ」を感じた1年でした。
体面だけ見ると、僕は33という年齢となり、結婚6年目を終え、子供は4歳を終えようとしているタイミングです。
妻の持病(指定難病の一つ)はもちろんこれ以上状態が良くなる、というものではないですが、寛解状態は安定して続き、子供も全く風邪ひかず、僕自身は季節の変わり目にきちんと熱を出し(1-2日で治る)、まぁ全体的には健康的な1年を過ごせました。
夏休みに毎年恒例のタイ滞在をし、春先に八ヶ岳、秋には館山に旅行にも行け、何より子供にとってのハイキング・山登りを御嶽山で秋が深まったタイミングで行えました。子供は山を登り切ったことに大きな自信を覚え、一つの成長がそこで見えたのが嬉しかったです。
今年は2026年、21世紀が始まり四半世紀が終わり、そして始まるタイミングということもあり、さすがに21世紀が始まった7歳のときからは振り返れないけど、30代になってからの特にメンタル面や考え方の変化を言語化した上で、次の25年の1年目である今年をどんな年にしたいかを徒然なるままに綴りたいなと思います。
前、少しブログに書いた気がするのだけど、まずは「意図的に変化を起こさないと変化ができない」という点が、一番最近感じる、精神的な劣化(良く言うと成熟?)なのかなぁ、と感じます。
20代の時の、「とにかく上を向いて努力すれば自分はどうにかなる」という、良く言うと向上心、悪く言うと世間知らずな一面は、33歳になると面影を見なくなります。
良くも悪くも30代というのは、20代の積み重ねや努力が反映されるものだと感じます。20代でそれなりに仕事を頑張って、それなりに出世して、31歳になる年には年収1000万円を超えられましたし、31歳で急にぶくぶく太り始めて焦りましたが、20代の頃に身につけていた運動習慣に対し、少しの工夫を施すことでなんとか自分のベスト体重にも戻りました。20代で「ノリ」で結婚したパートナーとの関係性を、山あり谷ありではあったもののなんとか維持・発展していき、その間から一人のかけがえのない女の子の命が宿り、その子が健康に不自由なく日に日に大きくなってきております。(来年5月に第二子の男の子が生まれます)
早寝早起きの習慣がいろんな要因で最近なくなりつつあるのだけが心残りですが、それ以外は、基本的には良い30代を過ごせているのではないか、そしてそれは20代からの積み重ねによるものが大きいと感じております。
逆にいうと、30代から、過去の積み重ねのないことに対する新しい挑戦は相当ハードルが高いものになったと思います。
自分は、なんとなくそれが20代後半-30代なったばかりくらいには肌で感じるものがあったので、趣味だったりもとにかく手広く少しずつ進めていたのですが、さらに他のこともできるようになりたい!と思っても、なかなか手を出すのは相当億劫です。
具体的には、僕が今後さらにできるようになりたいのは、「タイ語」と「料理」、「インデックス以外の投資」そして、「副業」なのですが、これをゼロベースで進めるのは時間も必要だし、そもそもどこから何をスタートするべきか、という観点を整理すること自体も筆が止まるという事態になってしまっております。
20代の頃は、それなりに時間もある中で「とりあえずやってみよう」とまず行動することからスタートできたのですが、この年になると「極力時間を使わず、省力で成果を最大化したい」という、ROIマインドがかなり歪なほど大きくなって、そもそも考えることに時間を使って手が全く動かない、という事態になるんです。
この、「リスクを最大化して見積もりすることで、何も行動に起こせないこと」が30代における精神の劣化なのかなぁと。
こんな状態に対し、どういうアプローチするのか。
とはいえ、少しずつDoするしかないかなぁと。
考えすぎず、息を吸うようにDoするしかない。それを日々積み重ねていくしかない。
なぜなら、今が残された人生で一番若い時だから。
20代と30代で大きな差はあるけど、確かに30代は20代に比べて、人生の主人公感は薄れてしまうけど、だからと言って何も始めない理由にはならない。
20代みたいに、まとめて何か一つに集中的に取り組む時間はないけれど、おそらく30代からの最適戦略は、分散投資と同じように、「自分の可能性を拡げる」ものに少量の時間を長期間で捧げるのが適切なのではないか、と感じます。なぜなら、失敗した時のコストがより20代よりも大きいから。
そして、いろんなものを同時並行で進めるための時間管理、体調管理の「戦術」は、20代の頃よりもより丁寧に遂行しないといけないなと感じます。
最後になりますが、30代になって、今まで蔑ろにしていた「人間関係」についても目を向けるようになりました。20代の頃は、自分をとにかく成長させることを目的に、人間関係はそれのハードルになると思いバサバサ人間関係を切り捨てておりました。
一方、30代になると、自分自身の人生について、関わってくれている人の重要性を日に日に感じており、周りの人との関係性を大切にしたい、と思うようになりました。当たり前ですが、「人間は一人では生きていけない」という風に感じているからです。
20代の時はある意味無敵、唯我独尊でも成立する世界だと思っておりました。今は子供ができ、保育園・幼稚園の先生やお医者さんにお世話になりながら、会社でも上下との関係性があって初めて仕事が成り立つ、、、ということを実感しております。
自分一人で自分の世界を成立させることができるほど、自分は強くない
こういう、寂しくも、当然の事実を突きつけられるのが30代なのかなぁ、と
昨年から、茶道の稽古を再開させたおり、より知識をつけよう!と思い「侘び寂び」の意味をわかったつもりでいたものの、僕の30代における人生観の「侘び寂び」の方が、その言葉の本質を捉えていると思います。
侘び寂びを感じつつ、いかに周りとの調和を築きながら、じわじわと自分の可能性を切り開いていけるか
そのために、日々の積み重ねを安定的に確かなものにしていけるか
一発逆転がないからこその日々の重要性が増すのが30代なんだと思うんですよね。
読書感想文:HIGH OUTPUT MANAGEMENT
HIGH OUTPUT MANAGEMENTという本を読んだ。
Amazonのこの本のページを閲覧していたら、自分がこの本を買っていたのは、マネージャーになる4年も前の2019年だった。意識が高い。
買ったきっかけは、田端信太郎氏がブログかTwitterかなんかで紹介していた感じだったかな、と思う。
自分はマネージャー職について丸2年と少し。今年で3年目だけど、やっと「こういうものか」という感覚を掴んできていると思う。その中で、改めて読んだこの本は、まさに「質実剛健な、マネジメントの基礎的(とは言え、相当深い)知見が得られる」と感じた。
今管理職の人はもちろん、これからなろうとされている、もしくはなりたいという人に非常におすすめしたい。
この記事では、本の内容に関する詳細というより、僕が特に印象に残っていること、また読んだ上で感じていることをざっくばらんと書き殴りたい。
・・・
この本の全体的な流れだが、まず初めに「朝食工場」という例えで、マネジメントとして一番重要なポイントが示唆されている。端的に言っちゃうと「業務プロセスにおけるボトルネックを洗い出し、それを無くすことで全体の生産性を高める」ということだ。
第二部では、上記のボトルネックを無くしていくのも含めて、マネージャーが行うべきアウトプット/情報収集/意思決定/プランニング、という観点にて、あるべきモノの考え方や姿勢、ノウハウについて語られる。
第三部では、よりマネージャーの影響力を広範囲に拡げていくことを想定し、組織構造論を深掘り、最後の第四章では、人事効果や組織内のメンバーへのトレーニングなどの具体的な考え方/手法について言及されている。
全体に渡り高頻度で具体(事例)と抽象(体系的な考え方)を行ったり来たりしていて、全体的に腹落ちしやすいし、マネージャーの人なら「こういうことあるある」っと共感しながらあっという間に読めてしまうだろう。
・・・
以下は、私が特に印象に残った本での言及についてまとめていく。
見える化が何より先に立つ
Oura Ringの記事でも似たような趣旨を述べているのだが、この本でもインディケーターという言葉を使って、「経営/事業状況の見える化とその指標が芳しくない状態の早期観測・早期対応」の重要性を語っている。
基本的にここの「インディケーター」というのは、僕らが普段使うKPIの定義そのものなので、あまり深いことを考える必要はないかな、と感じる。ただ「KPI」という言葉自体も結構誤解されていることが多いので、これについては、以下の動画であらためて学んでいただくのが良いと思います。
「本当に必要か?」のマインドで業務プロセスを再定義
マネージャーは、現状について「今までそうだったから」でなく、業務にしろプロセスにしろ、その必要性や本質的な意味合いについて詰めて考えないといけない。
最終的な成果、アウトプットを「最大限効率的に」出していくにあたり慣習的なボトルネックは排除していく、というビジネスプロセスの最適化も非常に重要な役割である。
ただ、ここについては、相当な質の構造的思考や全体俯瞰が求められるので、シンプルにスキル的に至らない人が多いと思う。あとはもちろん意識・マインドの問題もある。
得てして、ビジネスプロセスの変更は、短期的にはそのプロセスに乗っかっている人の批判を受けやすいので、視座を高く、かつ影響時間軸を長く考えておかないと、そもそもビジネスプロセスに何かしらの変化を与えようとは思わないものだ。
この意識・マインドセット、スキル、影響時間軸・階層を現場だけでなく経営目線も含め行ったり来たりした上、全体最適の意思決定ができるというのも、なかなか難しいがマネージャーになるための必要条件だと思う。
マネージャーのアウトプット=自分の組織のアウトプット+自分の影響力が及ぶ隣接諸組織のアウトプット
ここは個人的に一番響いた言葉だ。本当にその通りだと感じる。
マネージャーの仕事は何か?色々定義があると思うが、経営の指針と現場の中間に立ち、現場での成果が自動的に出る「仕組み作り」だと僕は捉えている。
そしてその「仕組み作り」の対象となる現場の課題は常に多い。そしてその課題は、ある特定の部門のみの話ではなく、結局はその周りの部門との価値連鎖のあり方にも存在するものである。
もちろん、部門内の課題も多くある(部門内のルール/メンバーのスキル/部内報連相の仕組みなど)と思うが、特定の機能のまとまりで部門が構成され、その部門間で価値を連鎖させながら、利益という最終成果物を作るという企業の成り立ちを考えると、より多くの課題は「部門間に」あるものだ。
なので僕らマネージャーは視点を広く持たないといけないのだ。「自分の部門が良くなれば良い」ではなく、「周りの部門も含めた生産性を仕組みによっていかに高められるか?」という目線が先立つべきなのだ。
地位パワーと知識パワーの適切なバランスによる意思決定
言わずもがな、意思決定はマネージャーの大事な仕事だ。
この地位パワーというのは、シンプルに地位が高い人のことを言う。同じように知識パワーというのは、その問題解決/意思決定に関連した知識・ノウハウが高い人のことを言う。
マネージャーは、地位の高い人の言うことを聞くのでなく、うまく知識パワーを持つ人の、問題解決に必要な視点や見解を最大限引き出した上で意思決定をすることに最大限の注意を払わないといけない。なぜなら、得てして知識パワーを持つ人でも、地位パワーを持つ人の前では意見が言いづらいからだ。
この本はインテルの元CEOが書いている本なので、主な描写はアメリカでの企業活動だと思うが、アメリカ人でも、僕のイメージと異なり「馬鹿と思われることを嫌うので、自ら意見を発することは嫌がる」と表現されていたのは非常に興味深かった。
要は、問題解決に最適な知識パワーを持つ人が、恥を晒すことを嫌がり、言うべき意見を言わないことをマネージャーは回避することで、最適な意思決定・落としどころを見つけていく必要があると言うことだ。
この観点で言うと、やはりファシリテーションスキルもマネージャーにとっては必須であると考えさせられる。
様々な立場の方の見解を聞きながら、最適な落とし所を探っていくために、高度なファシリテーション力や、そのための問題解決フレームを用いながらの準備力は非常に重要なケイパビリティである。
メンバーの系統的な訓練はマネージャーの仕事
マネージャーのアウトプット=自分の組織のアウトプット+自分の影響力が及ぶ隣接諸組織のアウトプット と言うのであれば、言わずもがな自分の組織のアウトプットが最大化できるような訓練は、マネージャーの仕事である。
皆さんは当たり前と感じられるかもしれないが、僕にとっては重要な気づきだった。
自分としては「仕事に必要なスキルを自らの研鑽により高めていくのは当たり前」と捉えていたので、わざわざ部下のためにトレーニングの場を用意する、その設計をすると言うマインド自体があまりなかったからだ。
トレーニングは非常に時間がかかるゆえ、辛抱強さも求められる。何より「この人ならできるはずだ!」と言う一種のポジティブさも必要だ。
やはり、マネージャーたるもの、中長期を見据えた活動が重要であることを感じさせられた。
・・・
ここまでは、本での印象に残った記述と八幡の感想であるが、ここからはより俯瞰して、全体を通して八幡が感じたことを徒然なるままに書き殴っていきたい。
まず、改めてマネージャーはめちゃくちゃ大変だと思う。
前提として、自分とその周りの業務は精通していないと話にならない。思考力、ドキュメンテーションなど相当な質の基礎スキルも必要だ。
何より、経営-現場、抽象-具体の行ったり来たり、バードビューを持つかつ中長期の時間軸を意識したプランニングがすごくハードであると感じている。
そんな中、部下の訓練もしないといけない。フェアネスや人間力を持ってモチベーションが小さい部下の啓蒙・意識づけが必要だ
量・質、論理・人間性、相反するものを自分の中で統合していかないと、まともなアウトプットは生まれない。それがマネージャーの仕事だ。
だが、そんな難しい仕事だからこそやりがいはあるし、良い意味で自分の影響力を自分に留めず、自部門、周りの部門、究極的には経営まで拡げられることが非常にやってて面白い部分だと感じる。
マネージャーに求められることは究極的には同じでも、そこに至るまでの手段は、コミュニケーションの仕方、価値観、スキルセットのバランスなどで十人十色なんだろうな、と感じる。もはや哲学や芸術の世界に近いかも。
個人的には、「フェアネス」を非常に重要視している。
この意味は、もちろん評価をフェアに行うと言うような通常の意味合いもあるが、「経済的待遇・責務・権限」のバランスが取れている状態ということだ。
これらの釣り合いが取れていないと、全社的にフェアではなく、それがいろんな歪みを生み出してしまうし、組織として生産的になれないと感じている。
この考えの裏には、僕自身の経験や思考はもちろんあるし、ある意味「正義感」というような価値観の話であるかもしれない。
いずれにせよ、僕自身はこの「マネージャー」という役割が好きだし、引き続き鍛錬を継続して行って、僕らしいマネジメントの究極系、哲学、芸術にまで昇華していきたいと強く思っている。
OURA Ringを買ったらマネジメントにおける重要な点に気付かされた話
こんばんは。
前回の更新からだいぶ経ってしまいましたが、お元気でしょうか。
僕はめちゃ元気です。
かなり花粉が猛威を振るう季節となりましたが、僕は一昨年末から、スギ花粉症を根絶するための舌下治療を続けておりまして、今のところはまだ症状が出そうで出ておりません。
舌下治療は、平均的に2-3年程度かかるらしいのですが、スタートする時期が早ければ早いほど、人生におけるバリューは高い治療かつ保険適用なので、花粉症の人は全員やるべきだと個人的には考えてますね。
さて、今日の本編ですが、Oura Ringを買ってからの気づきの話です。
いわゆる、スマートリングの一種ですが、Oura Ringが何かについては、Chat GPTにでも説明してもらいましょう。
30代になって起きた身体的かつ精神的変化
引き続き、書いていきます。今日は表題についてです。
以前ブログを良く更新していた時は26-28歳くらいのタイミングで、まぁめちゃくちゃ20代だったわけです。それから5年ほど経って今や32歳なわけですが、絶対値だと5年というのは短い期間に思えるわけですが、実際自分の身に起きた変化は非常に凄まじく、これは20代の頃には全く想像していなかったことでした。
今、ブログを再開した理由にもなるますが、32歳になると、世の中のこと、自分のこと、周りのこと、が良くも悪くもかなり解像度高く見えてきて、まぁ自分なりのできること/できないことも想像できたりします。
20代の時は、「ワンチャン」という言葉をいろんなシーンで利用し、良い意味で自分の可能性を際限なく信じて、なんの文脈もなくなぜか自分は最強な感覚があったりしました。しかし今は「ワンチャンはあまり信じず、できることをコツコツすることが一番の近道だ」となんとなく知った気になっちゃっているんですよね。
20代の頃は、どんな時でもゼロベース(ミスっても振り出しから再開できるという意味で)で物事を考えられたのですが、今は結構積み重ねたものを壊すのはかなりリスクだな、と思っちゃったりもします。なので、日々の感じていること、学んだこと、会った人、一つひとつの経験、は無駄にしちゃダメで、大切にしながら自分の人生の中でいつか何かに役立つと良いな、もしくは後から振り返って「よかったな」と思えると嬉しいな、と最近感じるんです。
まぁ周りくどい言い方してるのですが、ブログを再開したのは、まさにこの我が身に起る一つひとつの経験や感情、気づきを積み重ねる手段として最適だなぁと考えたというわけですね。
この精神的な変化はまさに20代→30代の最たる部分かもしれません。
その他精神的な観点で言うと、まぁなんか、あんま浮かばないかも。笑
まだまだ僕は仕事を思い悩み、寝れない時も多いし、仕事で感情的になることもある。
良いことに嬉しいと感じるし、嫌なことに対してはかなり引きずる。まぁこんなもんですよね。この辺りの精神面の成長はまだまだこれからが期待できる感じですね。
肉体面の変化は凄まじいです。ざっと挙げるだけでも以下
- 酒が全然飲めなくなる → 20代は毎日缶ビール2本飲んでいたほどビールを愛しておりましたが、今やほぼ飲みません。たまにの飲み会でくらいですね。お酒を飲むのは
- 週一の普通の筋トレだと太る → 最近は無酸素運動に相当量の有酸素運動を組み合わせることで、デブは解消されつつあります。ただ、普通に無酸素運動をそれなりにやってるだけだとぶくぶく太っていくので、めちゃくちゃ焦りました。
- 多分だけど、肌にハリが少なくなってきた →自分ではあまり感じないけど、多分周りから見るとわかるのだろう
特に31歳を境に太ってきた時は死ぬほど焦りまして、20代みたいにどんな深酒やコレステロールの高い食事も翌朝にはリセットされる、とか全くなくて、普段の運動や食事がそのままストレートに身体で表現されてしまうのが30代になってからの驚きでしたね。。。この辺りも、日々の積み重ね(健康的な食事や定期的な運動)がより一層重要だな、と思わされた一つの要因であります。
まぁ、こんな感じですが、よく聞くのは、40代になったらまた身体が変わると言うことなんですよね。マジで勘弁してほしい
マジで勘弁してほしいのですが、僕的に重要だな、と思ったのは、「自分の身体と対話すること」です。
昔の若い自分にしがみつくと、この歳をとってからの身体の変化ってなかなか受け入れづらいと思うんですよね。それで、昔と同じような無理をして身体にきてしまう、と言うのはよく耳にすることです。
ただ、時は不可逆ゆえ、老化も不可逆なわけですね。なので、常に自分の身体や精神と対話しながら、その時その時でベストな状態を実現するために、さまざまな観点を気に掛ける、という努力自体がとても大切なことなのかな、と感じます。
年取るのは、死に近づくと言う意味で悲しいことではありますが、まぁ自分の外的/内的変化を感じながら生きること自体は悪くないかな、と思ったりもします。自分の変化を感じることはまぁ全体的には面白いですからね。
子供に時間を費やすことは将来の自分を幸せにする
こんばんは。八幡です。
だいぶ久しぶりですね。過去を振り返ると約4年ぶりのエントリでしょうか。
前回の更新は、子供が生まれる直前の2021年の2月なので、いかに子供が生まれて時間がなくなったか、、、もしくは自分が怠惰になったか、、、という感じです。全国に3人いる読者様、ご無沙汰です。お元気にされてますか?僕は、色々小さな悩みもありつつ、全体的には非常に元気です。
今更なぜ更新をしたのかというと、表題の言葉について、今朝僕の頭に急に降ってきて、これはきちんと僕の感じたことを言語化しなければ!!!!と感じたからです。
こんな感覚久しぶりです。過去に3人いた読者様が今更読んでくれるとは思っておりませんが、今言語化することで、この感覚をずっと忘れず、将来の自分に向けてこのことを思い返すきっかけが作れればと思いました。
この4年間で本当に色々な変化がありましたが、それはまた別で語るとして、早速表題のテーマに移りたいと思います。
・・・・
突然ですが、僕は実は元々は子供については消極的な方でした。
第一子は大変な不妊治療の末、やっとこの世に生を授かった子でしたが、妻と治療に取り組む途中、ここまで大変だったら無理に作る必要あるか?と感じたことは一度や二度ではありません。
自分がなぜそのような考え方だったかというと、シンプルに「自分自身が大好きだったから」です。
自分に時間を使うのが好きだったのです。20代の時は自己実現の鬼だったので、自分のために読書をし、自分のために筋トレをし、自分のためにサウナに行き、、、総じて自分のためにお金と時間を使いまくっておりました。
子供ができると、シンプルに自分に好きなだけ時間とお金を使うことができなると感じたので、20代の僕は子供を作ることにそこまで積極的になれなかったのです。
苦労してやっと妻が妊娠し、生まれるまで〜ヶ月、、、という状態になっても、今だから言えることですが、「子供が生まれて、だいたい何年後くらいに一緒に遊ばなくても大丈夫になるのかな、、、、」と思ってました。このことは、妻には決して言えません。でも事実です。
そんなこんなで子供が生まれてからというものの、、、僕は、色々な意味で子供がいないことを全く考えられなくなりました。
子供が生まれた時の感動(当時はコロナ真っ盛りだったので、LINEを使った遠隔立ち会いでした)と、育休中の幸せな期間については機会があれば別で語るとして、今は土日は基本は子供と一緒にいっぱい遊んでおります。
平日も、自分がテレワークの時は夜は一緒に極力過ごしております。朝ごはんも毎日一緒に食べております。平日は、「子供と次の週末どこ行こうかな〜〜」と考えるのが好きです。
まぁ、ぶっちゃけ僕の今の状態も全然普通、というか、子供が生まれてからぞっこんになるのは極めて一般的なことだと思いますし、伝えたかったのは僕が子煩悩ですよ、ということではありません。
ついこの前0歳で、赤ちゃん抱っこをずっとしていた、盛大に黄色いうんちを飛ばしまくっていた我が子がもうすぐ4歳になります。幼稚園に通い、習い事のプールが大好きで、最近はバレエのレッスンも通いはじめ、当たり前のように口答えをし、自分の意思/好き嫌いが非常にはっきり言語化できるようになりました。
そんな我が子の成長を見ながら、嬉しくも思い、同時にどこか寂しくも感じてしまいます。それは、「いつか子供は巣立っていく」ということを少しずつ実感するからです。
我が子が巣立った時、今いる僕の生活はどうなろうと考えてみました。
僕は、20代の時と同じように、自分のために時間やお金を使えるでしょうか?
残された妻と僕で、子供が生まれる時みたいに二人で楽しい時間を過ごせるでしょうか??
そんなことを想像すると、僕は今目の前にいる子供との時間を大切にせざるを得ないのです。
きっと子供が巣立った時、僕は寂しく、悲しくなると思います。そんなのわかりきっております。
その時、「寂しいな、悲しいな、どうしようかな」と途方に暮れるのでなく、「寂しいけど、嬉しいな。僕も残された時間を妻と楽しもう」と思えるのか。その違いは何かと想像すると、「それまで子供と目一杯一緒に幸せな時間を過ごせたか」、この一点に限ると思うのです。
そしておそらくですが、この点は子供にも同じことが言えると思います。
子供の独立心/自立性を育み、実際に子供が自立できる状態を仮に育児のゴールとするのであれば、そのためには親の愛情と一緒に楽しんだ思い出が必要不可欠なのはいうまでもありません。逆に、親からの愛情が欠けている方ほど他人に依存的になるのだと考えます。
つまり何が言いたいのかというと、今目の前の子供に目一杯の時間を使い、一緒に遊ぶということは、将来的には自分の子離れとその先の幸せ/自己実現には不可欠だということです。
もちろん、このような考え方は物事の一側面であり、すべての場合において真だと言うつもりはありません。ただ、なぜか今朝、こんなことが一瞬にして頭に浮かび、直感的に「正しい」とある種の確信が生まれたのです。少なくとも、これが僕にとっての正解です。
仕事をしていたり、趣味もしていると、時として子供の存在がハードルになる瞬間もあると思います。それは否めません。ただ、そんな中で子供との時間を最大限幸せなものにできるか、という点を忘れずにいることで、「もっと子供と遊んであげればよかった」という後悔をせずに済むのかな、と思いました。考えすぎかもしれないですね。
今日はこれくらいで。
また定期的に感じたことをアウトプットしたいな、と考えております。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
人間が調子に乗らない方法をガチで考えてみる
タイトルの通り、人間が「調子に乗る」という事象について考えてみたい。
というのも、最近「調子に乗ってすいません。。。」という出来事が発生し、自分自身のあり方として考え直さないといけない、、、とガチで実感した出来事があったからだ。
- 調子に乗るということは、基本的に悪い部分が大きい(良いこともあるが)
- 八幡は調子に乗りやすい
- 八幡は調子に乗り、悪い結果をもたらしやすい
という演繹的な前提をもとに書いている。僕も今筆を走らせて、どんな結果になるのか全く想像ができないままスタートしてしまった。
調子に乗るとはどういうことか
まずは、いつも通り「調子に乗る」という言葉と状況の定義からしてみたい。
コトバンクによると、以下のようである
>おだてられたり、はずみがついたりした結果、得意になって物事をする。いい気になってうわついた言動をする。
うわぁ、、、まさに、、、と思っちゃうところだが、ここには2つの要素が含まれていると解釈する
- おだてられたり、はずみがついたりした結果、得意になって物事をする
- いい気になってうわついた言動をする。
まず、ここで重要なのは、我々が「悪」と考えるべきは2であるということだ。1は、実は八幡の経験上、ポジティブに働くことも多いのだ。
例えば、受験や営業のコンペの際に「こんだけ勉強、準備して人事を尽くしたのだから、まさか落ちる、失注することなんてないでしょ」と自信を持つほどに準備を徹底したときに「得意」になることは、あまり悪いことでないと思う。結果として、良い結果をもたらすケースもあるからだ。
しかし、注意したいのは、その「得意」に根拠があるかどうかだ。
単なる地位や噂、なんとなく自分自身の評価だけで「得意」になると、薄っぺらい物事しか成し遂げられない。つまり、やはり「得意」そのものが、おだれられることを起因としたはずみからくる場合はやはり良くない。はずみが自分の努力により付くのであれば僕は良いと思う。
2については、1の進化系かと考える
1の起因が自分自身の努力だろうが、周りからのおだてだろうが、「自分はすごい」という全能感がもたらす結果である。
まず、断言するとどんな理由でも「自分はすごい」と思い始めた瞬間から、もうアウトであり、そのさきの落とし穴の明確なフラグが立つことになる。(それは八幡が何回も実証済みだ)
「自分はすごい」という感覚は、いくら自分がひた隠しにしたとしても、必ず周りからはバレてしまう。些細な動作や周りの人への言葉遣いによりだ。
またその全能感は、普段気をつけているとても基本的な動作や準備等といったことの怠りという形で現れ、その結果遅かれ早かれどこかで失敗してしまうのだ。成長も無い。
では、なぜ人は全能感を持ち、調子に乗ってしまうのか?
この問題の出どころを明確にしないと、それに対するソリューションは考えられない。
まず、全能感というのは、以下のような状況がもたらすと考える
- 自分が何でもできると思ってしまうケース:何かに成功したとき、何かを成し遂げたとき、その成功が続いたとき
つまり、何かの成功体験をしたときに、その成功=自分の力 と考えてしまうところが基本的な原因かと考える。
その仮定が正しかったとき、何かに成功した(と少なくとも自分が思っている)ときに、考えるべきは2つの問いだ
- そもそも、それは「成功」と本当に言えるのか?
→自分で考えている「成功」は、本当に成功なのか?他の人の価値観、視座からすると、全然成功ではない、というようなことではないのか? - その「成功」は全部自分の力で成し遂げたことか?
→周りの支援はその「成功」の要因ではないのか?本当に自分ではないと、成功できなかったのか?
前者の問いをもとに考えると、自分が「成功」と思っていたことが、他人にとってはそうではないということを実感できれば、全能感を持つことはなくなる。つまりソリューションとしては、「自分より遥かに成功している人と比較する」というアプローチが一つ検討できる。
基本的に人と比べること、というのは良くないと思われているが、要は使い所だ。自分が調子に乗るその瞬間に自分よりも遥かに成功している人を実感することで、たぶん調子に乗る現象は防げるだろう。もちろん、自分がその人より成功していないからといって必要以上に自分自身を卑下してはいけないが、少なくとも「もっと自分も頑張らなければ」と思わないといけない。
また、そこからさらに深ぼると、自分自身より遥かに優秀で成功している人が周りに多くいるなかで生きるということは、そもそも調子に乗りにくい状況を生み出せると考える。しかし、あさに米国留学中の自分だが、自分のできなさを深く実感しすぎ、心に病んでしまうケースもあるので、そこはやはりバランスが必要なのだろうな、、、と思う。心が強い人なら問題無いとは思うが、、、
また、「その「成功」は全部自分の力で成し遂げたことか?」ということを考えるのもとても重要だ。
僕が健康に生きていること、勉強がしたいときに勉強させてもらったこと、留学させてもらったこと、刺激的な仕事や機会をいただけたこと、良い提案ができたこと、今幸せに生活していること、、、
それらすべてが自分の力なはずがないのだ。それは、少し想像してみればわかることで、やはり調子に乗るということは、視野も狭く、想像力が乏しい人が陥ってしまうんだろうなと思う(まぁ自分自身だけど、、、)
ということで、落とし所としてはこんな感じだ。ちなみに、そもそも成功体験が調子に乗らせるなら、そもそも成功しにくい難しい課題にチャレンジし続けるということも本質的な対策であると思う。
決して調子に乗らず、勝って兜の緒を締め続け、粛々と人生をこなしていけるような人間でありたいのだが、このことをわざわざ深ぼって考える必要がある時点で、僕という人間は、調子に乗らないことが困難であるということを表しているのだ。How paradoxical this is!
ブランドは買うものではなく、磨きあげるもの
ある休日。
僕は車を走らせ、少し家から距離のある温泉施設に朝っぱらから足を運び、朝ウナ(朝サウナ)をした。
僕が好きで好きで仕方ないもの。それはサウナだ。最近、自分のことを語るということをブログ以外であまりしないのだが、どうやらサウナがトピックになると、僕は話を止めるということができなくなるらしい。
この前留学時代の友人と久しぶりに遊んだのだが、僕は渋谷にある老舗の鰻屋で、ふっかふかのうな重を前にして、気づかず30分以上サウナ、ロウリュ、セルフロウリュ、オートロウリュへの愛を語っていたようだった。「ロウリュもいいけど、うな重食べようよ」という友人の言葉ではと我に帰った。
投資銀行ですでに億とか稼いじゃっている友人から不動産投資の節税スキームを解説してもらって、「やっぱ金持ちの考えていることはすげーな」と素直に驚く一方、ちょっと油断すると「やっぱり将来不動産を買うならキレイな水が流れている長野の山のあたりだな。サウナ小屋建てるのにもってこいだしな」とかすぐ頭の中で話がそれてしまう。どうやら僕のサウナ愛は、人の話を素直に聞くという非常に大切なことの妨げにもなってしいるらしい。
という、超どうでもいい話をしてしまったが、とにかく先週朝にサウナに入って、そこについているTVの番組内で、ある人物から目を離せなくなってしまった。
その人物とは、Non Styleの井上裕介氏である。
なぜ目を離せなかったか。それは彼が「キモおもろい」からだ。
井上氏の家にギャル曽根さんがお邪魔して、冷蔵庫の残り物で華麗な料理を振る舞い、井上氏に食べさせるという内容だったのだが、とにかく井上氏がキモい。
- 冷蔵庫の残り物に漬物が死ぬほど余っている → キモい
- ギャル曽根さんに朝の情報番組でのトークについて話を振られ、水を得た魚のように10分くらい自分語りが止まらなくなる → キモい
- 髪型 → キモい
- 普段の雰囲気 → キモい
- そのキモさ → おもしろい
という見事な「キモおもしろさ」の演出が井上氏にはあった。
そのキモおもしろさは、人によっては「本当にキモい」となるかもしれないが、少なくとも僕は、「おもしろいな~」というポジティブな感情を抱いた。
また、彼がすごいところは、そのキモさとしての一貫性にあると思う。
正直僕はあまりTVを見ないのだが、たまに妻が夜にTVを観てる隣で僕も観たりすると、VS嵐やら、東大王やら、なんやかんやのバラエティ番組に氏は必ずいて、しかもそのキモさを遺憾なく発揮しているのだ。
おそらくそのキモい髪型も、毎月同じ美容師さんに「いつものキモい髪型にしてください」とお願いしているのだろうかと想像すると、本当に涙ぐましい努力だと思う。彼はその「キモい」というブランドを日々磨きに磨いて「おもしろい」に昇華させ、TV番組に引っ張りだこなのだと思う。
・・・
最近読んだ本に、森岡毅氏の『苦しかったときの話をしようか』という本がある。
内容の詳細はまた別途語るとして、そこで語られているテーマの一つが「セルフブランディング」についてだ。
その本は、氏が就職中の自分の娘に語りかける形で書かれており、よって内容についてはビジネスドリブンである。ビジネスで自分としての価値を遺憾なく発揮できるよう、自分が得意なことをセルフブランドとして磨いて、そのブランドと一貫した行動を継続しさらに磨いていきなさい、という旨だ。
一方、このビジネス面でのブランドの話も、さきほどの井上氏の話となんら齟齬はない。つまり、自分の得意なところ、自分が人よりも秀でているだろう(もしくはそう望む)価値について、それを人が自然に認識できるように、日々アピールしていくこと。そのブランディングと一貫した行動を継続し続け、さらにそのブランド力を向上させていくことは、自分の活躍の場を広げていく上で重要ということだ。
「◯◯といったら△△さんだよね~」
という、自分なりの付加価値を最大限に極め、それがいろんな人から認識されれば、仕事は常に回ってくる。「キモくて面白いでいったらやっぱNon Style井上だよね」みたいな感じだ。
また、そのセルフブランディングをどう定義していくかだが、方法論としては以下のピラミッドを作っていくことなる。
BIG WAVE - 田端大学『セルフブランディングの極意がここに。元USJ森岡毅氏考案「ブランド・エクイティ・ピラミッド(キャリア開発用)」解説』より
実は、ビジネスとしてのマーケティングとなんら互いはなく、「誰に、何を、どうやって訴求する?」という観点を深堀りしていくことによりブランドを創り上げることとなる。
また、その築いていくブランドについては、以下の問いに答えられるかがポイントとなる。
- 価値は十分強いか:要は意味がある価値か?
- 信じられるか?:その価値を発揮する上での裏付けはあるか?
- 際立っているか?:差別化されているか?
- 自分の本質と一致しているか?:別人を演じてはいないか?
井上氏でいうと、その「キモさ」については、芸人の中でも際立っているし、「ナルシスト」も混ざって独自性も生まれているとすら思う。少し前の狩野英孝氏と似ているイメージだが、今や狩野氏よりもそのブランドに磨きがかかっているのが井上氏なように思える。そして、日々のTV番組内での氏のキモい言動が、そのブランディングとしての信ぴょう性、期待性を確固たるものに築いているのだ。
ビジネスの世界、TVの世界、色々な世界でのセルフブランディングの好例はたくさんあるが、そのうちの1つがこの井上氏なのだ! と思うと、僕はサウナ内のTV内の彼に目が釘付けとなってしまった。そして半ばのぼせる、、、というタイミングで僕はサウナから出て水風呂に存分に浸かることになった。水風呂は、サウナ内で暑さに耐えれば耐えるほど気持ち良いものだ。井上さんのお陰で、かなり良い気持ちよさを得られた!
「You're Non Style but you do have your Style!」
お疲れさまです。
