Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

マスターピースはすべて「抽象化」によりスタートする

2018年の暮

ブログを更新するのも久しぶりだ。

僕は「東麻布」と言われる場所に引っ越した。

なぜこんなところに引っ越したかは、もちろん会社の移転先の近くというのもあるけど。

六本木のスタバにチャリで5分で行けるからというのが大きい。

僕は朝7時からここでコーヒーを飲みながらポスト・クラシカルの音楽を聴くのが好きで好きでたまらない。

今日はOlafure Arnaldsという人のTreeという曲を聴いていた

youtu.be

 

ふと感じたのだ。今この世界にこんなに美しい音楽がある所以

今僕が静かな街で、澄んだ空気のもとでこんなに幸福な時間が過ごせる所以

それは他でもない、音楽の父バッハのおかげなのだ。と。

バッハはなぜ「音楽の父」と言われているか。

それは今まで旋律の交わりでなかった音楽を誰にでも触れられる形で「抽象化」することに成功したからからである。

バッハが音楽を抽象化することに成功した時代、音楽は旋律の重なりで表現された。

ある旋律が複数交わり合って一つの美しいハーモニーを奏でる。教会などで児童が複数のパートにわかれて聖歌を歌っているシーンを思い浮かべたらそれに近い。

それまでの音楽が「旋律の重なり」であったものを、バッハは「和音の組み合わせ」という全く異なったアプローチで抽象化することに成功した。

誰もが「ハ長調」は小学校で学ぶし、中高でバンドをやっていたものは、CやAm、G等「コード」という言葉にも親しいのではないか。

音楽の途中途中をぶった切ったとき、そこはどの音で構成されているか?(コード=和音) 次の小節はどの音で構成されているか?(コード進行=和音進行) 曲全体として、どの組み合わせの音で構成されるのか?(調性)

上記は、現代では作曲するときにほとんど採用されるアプローチであるが、それは実はバッハが「音楽は和音の組み合わせである」という抽象化のアプローチをとったからこそ可能なのだ。

バッハ以降の数々の有名なクラシックの大家がこの和声的アプローチで様々な音楽を残したし、印象派と言われるドビュッシー等は、逆にこのバッハの理論を破る形で新たな音楽を作り出した。

ただこの印象派も、ある意味バッハが抽象化した理論の枠組み内で、ルール違反のことをやっているという意味では、やはりバッハの影響は脱していないのだ。

何が言いたいかというと、何事もイノベーションと発展のためには「抽象化」が必要であるのではないか、ということだ。

抽象化は、言葉だけ聞くとなんだか難しい響きだが、「ルール」、「定理」等といった言葉に置き換えても良いかもしれない。

僕たちは学校で色々な公式、定理を学ぶが、それはこれまでの偉大な発明家、学者さんが、多大なる研究のもと見つけ出したシンプルなルールで、そのシンプルなルールのもと色々な推察や試行ができるようになるという意味では大変便利なものだ。

企業価値=その企業が将来もたらすキャッシュフローの現在価値」

なんてその最たる例だ。このシンプルな法則をもとにどれだけの企業が上場し資金を得て、はたまたM&Aをしたりしながら更に会社を発展していっただろうか。

なんでこんなに「抽象化」を繰り返しているか。

僕は僕自身を「抽象化」したいからだ

2018年は色々あったが、本当にいろんなことに頭を悩まされ、ストレスも感じ、うだうだしてしまい、結構疲れたのだ。

もちろん悪いことばっか起こったというわけでない。

今年頭で「絶対獲る!」と意気込んだ2つの大きな案件は無事取れたし、「なんとなく海外で仕事したい!!」っと今年頭のインスタで言っていたが、どういうわけか、シリコンバレーに出張する機会も得た。

ただ、毎日毎日の経験や意思決定で、「これは自分がするべきことか、もしくはすべきでないか」とか、「これは自分が望んでいることなのか」といちいち考え悩むのが正直もう面倒くさい。やってられない。

どうしたらこの迷いをなくし、さらに自分を発展させることができるか。

それはもう自分自身を抽象化するしかない

僕は何のために生きるのか。誰のために生きているのか。僕の使命は何なのか。

このシンプルなルールを見つけ出すしかない。

そのためにこの冬休みは使おう。そんなことを今朝ふと思ったのだ。

来年の目標は

①自分の使命を見つけること
②自分の使命を全うすること
③人に優しくすること

である。

ということで来年も皆様よろしくお願いいたちまちゅ。

シルバーウィークのタイ滞在で感じた世界の経済情勢

お疲れ様です。八幡です。

いや~、本当に更新サボっていてすみません。。。忙しかったのか忙しくなかったのか、よくわからん日々が続いてます。

ただ前より、自分がやりたいことと、やるべきことは数ヶ月前に比べかなり増えました。そのToDo増加分に対し、私のCPUスペックが追いつかず、やり残しが増える→やり残しを処理するための時間が必要→思考の時間が削減→ゴールに立ち返るタイミングの減少→生産性の低下

って感じの悪循環に陥っております。。。

将来、最終的にはどのようにお金を稼いで、どのように人の役に立つかは、

  • 自分が得意なこと
  • 自分が好きなこと
  • 自分がやるべきこと

の3つが重なるところが良いなと思っているのですが、如何せんなかなか重なることがないですねぇ。。。例えば僕の得意なことは、ここではまだ秘密ですが、実は僕自身が「すごく面倒くさいなぁ」って感じちゃうものですし、好きなことはありますが、そんなんでどうマネタイズできんねんというものですし、「やるべきだ!!」っと使命感持っていることも特にないし。。。んーって感じです。

まぁ、この五里霧中(使い方合っているかな?)の中で、どうにか何者かになるために、日々仕事や趣味、人間関係の中で生きているわけなので、そんな焦んなくても良いのかなぁっと、ポジティブには考えてます。よろしくです。


ところでですね、僕たぶんあと数ヶ月で結婚すると思います。
3年前からお付き合いしている方、タイ人の女性なのですが、その両親と家族にご挨拶するためにシルバーウィークにタイに行ってきました。

前から結婚を前提にお付き合いしていた人ですが、別に結婚を宣言しに行ったわけではなく、お会いしたことなかったので、挨拶するという軽いノリで行ったのですが。。。

彼女一族勢揃い(集まったのは25人くらい。本当はもっともっといるらしい。。)でお出迎えされ、それはそれはおいしい料理とお酒をごちそうになったわけです。

もともと彼女は中華系(祖母4人が華僑)なので、親戚はほとんど皆中国系です。中国系の方の特徴かわからないのですが、何かお祝いごとや良い報せがあると、一族全員で晩餐会を行うのだとか。

「その一族のかわいい娘が、なんと日本人の彼氏を連れてくるらしい!!!」
と皆興味を持って集まってくれ、やれ「カンペー!!!カンペー(乾杯)」とわいわいしていただいたわけです。

僕はタイ語も中国語も話せないので、全然コミュニケーションが取れなかったのですが、彼女によると皆から「結婚はいつするの?」「どこでするの?」等と、質問責めになっていたとのこと。みんな喜んで結婚を前提に考えてくれるとわかったので、「じゃあ結婚していいかなー」という気持ちになり、週末は実は結婚指輪とか探してました(初めての体験なので、指輪一つ作るのも新鮮!)

さて、僕がこのブログで伝えたいのは、僕の結婚のことというより、僕がその晩餐会で感じたことです。


皆さん、スマホ、何使ってますか??

おそらくiPhoneの人がほとんどかと。僕も数ヶ月前までそうでした。

ただ、iPhoneってめっちゃ高いじゃないですか。僕はLine Mobile使っているので、携帯を変えるとなると、端末価格がそのまま初期費用としてのしかかってくる。。。

「携帯買うのに8万とかかけてらんねぇ!」っと思い、結局僕は2万円のHUAWEI nova lite 2を購入しました。

k-tai.watch.impress.co.jp

 

使ってみて、iPhoneに比べたらたしかに遅いし、初Androidともあって慣れるまで時間がかかりましたが、2万円という費用を考えたら、マジで良い買い物したなぁーって思います。中国メーカー単純にすごいなぁと感じているわけです。

さて、話は戻り晩餐会。参加メンバーは僕以外は中国系の方です。

タイ人とは言え中国系なので、HUAWEIとかZENPhoneとか使っている方多いかなぁと思ったら、

おもしろいくらい皆iPhoneX。笑

誇張表現無しで、皆iPhoneの中でもXや8Plusなど上位機種を使っているわけです。25人中20人くらいはそんな感じだったかも。ちなみに僕が以前使っていたの、廉価版のSEですよ!笑 上位機種買う金ないっての!!

正直彼女の一族、皆超お金持ちなので、高いスマホを買うのは全然納得です。ただ、高いスマホなら、ぼっちゃけサムスンとか、日本のSONYとかもあると思うんですよね。ただ、皆本当にiPhoneなんですよ。iPhoneにこだわっているとしか思えません。iPhone2台持ちという強者もいましたよ。

僕はそこに、一種のアメリカに対し、今中国人がどう感じているのかという経済情勢の構図を感じ取ったわけです。

この前、iPhoneの新機種のラインナップを見て、HUAWEIの社長が「安心した」(HUAWEIを揺るがすようなイノベーションが起こっていなかったことに対する安堵)とツイートしたように、恐らく中国人とって、アメリカはライバルでもあり、超えるべき存在でもあり、超える必然性を持つべき存在です。

そのような相手の作るガジェットを使い、いつの日かは中国の作るものが、アメリカの作るものを超えていく未来を想像しているのでしょうか。(シェア的にはHUAWEIiPhone超えしてますけど。すでに)

そんな中、「安いから」を理由にHUAWEIを使っている日本人の僕。完全に取り残されています。

そんなお金のない僕も含め、その晩餐会の中でのiPhoneの存在、それを所有する中国系の方々、その脇にいる金のない日本人の僕、が完全に世界経済の情勢の一端を写しだす鏡だったわけです。

「あんな金のない日本人と結婚して、あいつは不幸だったな」

って将来彼女が言われないようにしないとなぁって、経済的に沈みゆく日本を憂いつつ、彼女が持っているピカピカのiPhoneXを横目に見ながら、強く心に誓うのでありました。

 


終わり


まぁ確かに

 

売値を下げることはすなわち会社の首を締めることと同義である

最近、管理会計を勉強しております。以下の管理会計の基礎を学ぶには、以下の本がとてもわかりやすくオススメだとおもいました。

 

books.rakuten.co.jp


さて、表題の件について話す前に、そもそも管理会計とは何かということを説明しようかと思います。

管理会計とは、簡単に言えば「会社の儲けを創出するための会計の考え方」と言えるでしょう。売上が~で、コストが~だから結局~円儲かるねってことを、考えるためのものです。

では、これはB/SやP/Lを作成するための財務会計と何が違うのかという話ですが、そもそもこの2つはゴールが全く異なります。

財務会計は、税務署や株主のための情報開示を目的として、法律により定められた一定のルールに従い財務諸表を作成するためのフレームワークであり、対外的なものになります。そこに儲けるための手法や情報の見える化という概念は存在しません。

それに対し管理会計は、「どうやったら儲かるのか」をあくまで内部で考えるためにある、情報の見える化の手法となります。会社が儲けを生むために適用されるフレームワークとしてより重んじられるべきなのは、この管理会計なのです。

では、管理会計とは一体どのようなものなのでしょうか?
この問いを、「限界利益」という言葉を用いて説明します。

管理会計で最も重要視されるKPIは「限界利益です。限界利益とは、粗利益とも言われたりするのですが、売上-変動費で算出される値を指します。

売上は、皆様が想像する売上と齟齬がありません。問題は変動費です。変動費は、コトバンクによりば、以下が定義となります。

生産高や売上高に比例して発生する費用で、中心となるのは原材料の仕入費用や外注費用など。

 
「あれ、これを変動費と言うならば、「限界利益」は財務会計における「粗利益」と同じじゃないか。」

と皆様思われるでしょう。

ここで思い出してほしいのは、財務会計は一定のルールに沿って対外的に実施されるものである一方、管理会計はあくまで自社で儲けるため手段を考えるために実施されるものであるといことです。

財務会計における粗利益は「売上-仕入れや外注費等のコスト」で一意的に決まる一方、限界利益における変動費の定義は、各会社の「儲けるためのモデル」により、いくらでも変わってくるのです。

あるIT企業を例に、この変動費の定義が流動的に変わることについて説明しましょう。

あるIT企業においては、限界利益の定義は以下のようになります。

限界利益=売上-変動費仕入高+外注費+受注後のSEや開発メンバーの稼働コスト)


上記の式で特徴的なのは、「受注後のSEや開発メンバーの稼働コスト」なのではないでしょうか。

稼働コストとは、いわゆる人件費とほぼ同義です。あれ、だったら、人件費は毎月決まった額が支出される「固定費」になるはずなのに、なんでSEや開発メンバーの稼働コストは変動費となるのでしょうか?

SEや開発は、ある情報サービスを提供するためのアプリやWebを開発構築したり、それを常に正常に利用できる状態にするのに保守・運用を実施します。

言うなれば、SEや開発の稼働は、その会社における売上に直結します。また、SEや開発のリソースは有限であり、ある案件で大きな稼働をかけている場合は、別の案件での稼働分が犠牲にされるというまさにゼロサムなリソースとなります。

管理会計が、「儲けの見える化」のためにあるなら、このような儲けに直結するようなリソースは、常に売上と結びつかれ、管理されないといけません。だから、ITに企業における限界利益を求めるための変動費の定義には、SEと開発のリソースが織り込まれるべきなのです。

さて、前置きが長くなりましたが、ここで表題の「売値を下げることはすなわち会社の首を締めることと同義である」の登場です。

お客様の希望に合わせ、競合に合わせ売値を下げることは、一番最後に考慮されるべき、頻発すべきでない営業戦略となります。

何故かと言うと、その売値の減額分が、そのまま限界利益の減額分となってしまうからです。

なんでなのでしょうか?それは想像に難くないと思いますが、売値が下がったからと言って、そのプロジェクトにかかるSEや開発の工数はその分下がるわけではないからです。つまり、変動費は全く下がらないのに、売上高だけ下がるので、その売上高の下がる分利益が減ってしまうのです。

簿記の原価計算にもよくある考え方なのですが、「変動費」なので、売上が下がる分だけ変動費が下がると考えるのは大間違いです。プロジェクトの売上が下がるんだったら、その分SEさんや開発メンバーの稼働を圧縮できるでしょうか? 答えは否です。

この限界利益の考え方をあたり前のものとして受け入れるためには、財務会計的な「売上×利益率=利益」という割合の考え方は捨てなければなりません。大切なのは、限界利益の「額」であって、「利益率」ではありません。よって、営業にとって評価される指標も、売上×利益率という考え方でなく、どれだけ儲けをもたらしたのかの「額」によるものでないといけないかと考えます。

最後の方は、僕のオピニオンがおもいっきり入ってしまったのですが、これで、売値を下げるということが、営業戦略にとって悪手になることを理解いただけたと思います。(もちろん、限界利益を考慮したうえで、それでも戦略として減額するということは考えられるかと思います)

管理会計を勉強して、会社が儲ける体制を作るためにはこの「限界利益」の考え方が大事であることを実感できました。そしてさらに重要なのは、そのような考え方が普及されるような土壌、制度を整えることだと思います。

 

安易に売上と、売上×割合で評価されるものにより、限界利益がマイナスのプロジェクトを受注してしまうと、その企業の首を締めてしまうことになるのですから。


おわり。

辞めるなら今この瞬間。何かやるなら今この瞬間。その連続しかない。

最近僕が気になるその男、与沢翼と申す。

与沢翼という人を知っていますか?僕はあんまり知らなかったのですが、とりあえず事業立ち上げたりうまくいったり倒産したりした超金持ちの人くらいと思ってました。

最近、彼についてより興味を持つきっかけがありました。以下の記事です。

oreno-yuigon.hatenablog.com


この人やばくないですか?笑

僕が知っていた与沢氏はもちろん太っていて、それがデフォルトだと思ってました。

ただその記事のダイエットに成功した彼の姿がそれはそれはかっこよく。。。
2ヶ月でそんなに人って変わるんだなぁとまじですごいと思いました。

表題の言葉は、与沢さんがよくツイッター等でつぶやいていることなのだけど、とにかくやると決めたらやる。やらないと決めたらやらない。やることに関しては必ず自分との約束を守り、やりぬく。人との約束は破っていいけど、自分との約束は決して破らない。自分との約束を守って、一つ自信を積み重ねてレベルアップし、やると決めたことに関してはバランスなど考えず、エクストリームにやりぬく。

というような考え方が本当にすごいなーと。イケてるなぁと。

最近僕も、何をやるべきか、何を辞めるべきか、誰と付き合うべきか、誰と付き合わないべきか、をよく考えていて、人との関わり方に特に悩んでいて。

色んな事をして色んな人と関わってバランスをとって、、、というのもいいのかなぁと考えていたところ、与沢氏のような人に感銘を受け、、

本当どっちが正解なんだよ!って日々迷っています。

まぁ、昨日今日で出した結論は、

バランスをとろうと考えるのはやめよう

ということです。色々やってみた結果バランスが取れていたとかだといいと思うのですが、バランスはゴールとして求めるものでないなと思いました。

あんまり付き合いたくない人とも、「バランス」を求めるがゆえに付き合ったり飲んだりするのはもうやめようと。

やりたいことがあるのであれば、あまり難しいことは考えずひたすらやろう。そこにリソースを使おう。自分との約束を必ず守りきろうと。

そんなこと考えてます。

この考え方の結果、僕の人生がどうなるかは、正直わかりません。が

なんとなく以下の彼のツイートは本質だと考えてます。

 

おわり

私が今一番イケていると思う経営者は・・・・

断言しよう

(今のところは)稲盛和夫氏である。

これまで、好きな経営者として、『入社1年目の教科書』の著者でもある、ライフネット生命の岩瀬氏や、『お金2.0』の著者でもある佐藤氏、いつもハートフルなブログ記事やVoicyの投稿をしていて、保育における日本の課題を解決するという素晴らしい事業の立ち上げ人であるキッズラインの経沢香保子さん等を挙げていた。

ただ、今はぶっちぎりで稲盛和夫氏である。

稲盛さんについてご存じない人がいたら、とりあえず以下の記事を読んでみてほしい。

tsuyomon.com


私は、稲盛氏のことは以前からなんとなくで知っていたが、深くは知らなかった。彼を心の底から「まじですごい」経営者と思い始めたのは、以下の本を読んでからである。

books.rakuten.co.jp


いやー、すごい。この本には心を打たれた。

この本は、稲盛氏が考える、会計における重要な考え方と、それをどのように経営に活かすのか、どう活かすべきなのかの哲学について稲盛氏本人により書かれている。実学」のタイトルは伊達ではなく、彼の経験から語られる会計と経営は、より臨場感とリアリティを持っており、あまり会計について詳しくない僕でも自分が身をもって経験したかのように感じられた。

ちなみにこの本を読んだとき、メモがてら八幡が作成したマインドマップは以下である。


この本で一番印象に残っているのは、彼の生き方そのものが会計を通し語られることである。

「公明正大」、「人として正しいことをする」等、人が生きる上ではフェアネスが何よりも重要であるという旨の言葉が何度も本に出てくるのだが、そのフェアネスを会計上でも実現しているのが、稲盛和夫氏の凄さである。

例えば、「1対1の対応を貫く」なんてまさにそうだ。

仕入と売上の関係を必ず1対1で捉える。お金の動きとモノの動きを必ず1対1で捉える。

「予算が~月なので、まだ役務提供受けてないけど、先請求書だけいただけないかしら~」等、便宜上請求もしくは仕入れ伝票を先に立てるみたいなことは、正直どこもあるとは思うのだが、稲盛和夫は決してそれを認めない。簿記で言う、借方と貸方の側面で捉えられる取引でないと必ず認められないらしい。理由は、それが会計として正しいから。

また、詳細はまた別の記事にでも書こうかと思うが、アメーバ経営が、稲盛和夫氏が説く「正しい経営」の最骨頂であると思う。

アメーバ経営は、各事業部ごとに利益の見える化を促すことを目的とした、事業部をアメーバと暗喩し表した経営方針のことだ。一種の管理会計の手法とも言っていい。

企業は大きくなればなるほど売上も大きくなるが、その分コストも増える。そして大きくなった企業は、そのコストが色々混ぜこぜになってしまい、コストのどの部分が収益のどこの部分をもたらしているのかの把握が難しくなるらしい。

製造業だと、「原価標準=目標となる製品1単位あたりの標準的な原価」を基に、原価目標を立てるケースが多いらしいが、その原価標準は、過去の実績や同じ業界の平均値から採用されることが多いらしい。

稲盛和夫は、原価標準という考え方を「正しくない」とする。なぜなら、製品の価格は、市場によりいくらでも変わるものなので、原価がある一定の値に固定されてしまうのであれば、売値が下がったときに、販売すればするほど赤字になってしまうということが起こるからだ。

稲盛和夫にとって、原価の考え方として「正しい」のは、原価は変動するものと捉え、常に市場の状況により、目標とする原価を変動させ、常に利益をもたらせるような下地を整えるということである。

アメーバ経営では、各事業部が売上だけでなく、原価までも目標を定め、各アメーバごとで必ず利益をもたらしていく仕組みになっている。さらに、利益をそのアメーバに属する人間の稼働時間合計で割り算することにより、そのアメーバにおける1時間稼働あたりの利益まで計算するらしい。

何よりも素晴らしいのは、各アメーバの利益を合計すると、必然として会社全体の利益が計算できるようになっており、それはすなわち自分たちのアメーバが、会社全体の利益にどれだけ貢献しているかが定量的に見える化されることだ。どのようなアメーバでも、「利益」を意識するようになり、全員参加型の経営が実現できる。

そのようなシステムの考案者かつ実践者である稲盛氏、なんか超絶すごい経営者と思えてこないだろうか??

「正しさ」を求める人間はいっぱいいるが、実現できる人はなかなかいない。稲盛氏に僕が羨望の眼差しを送るのは、「正しさ」を会計と経営により体現しているところだ。

言行一致の人は信用されるが、それはもちろん企業にも当てはまると思う。

企業活動の中で「公明正大」を実現する稲盛氏を僕はこころの底からすごいと思うし、そんないかした人間にもなりたい、いやなるんだと決意を持った。

 

おわり

アートが経営にもたらすもの

おはようございます。

最近更新できず、ごめんなさい。全国にいる3名のリピーターさん、ごめんなさい。
暑さと仕事のプレッシャーでへたっておりました。

僕はここんとこ「Life is work」ばりに、仕事について一番優先して考え行動していたのですが。

あんまりいいものではないですね。仕事が一番!は、はたから見るとストイックでかっこ良いように見えるかもですが、その分時間も気力も仕事に依存し費やしてしまうということなので、人生における別の要素が疎かになり、結果全体的には不幸になるような気がします。

まだ25の僕がこんなこと言ったら、多分人生の先輩から怒られるのかもしれないですけど、やはり大事にすべきなのは仕事だけではなく、何より身近な人との関係なのかなぁと思います。具体的に言うと両親、兄弟、彼女、仲の良い友達。

若い僕がバランスなんて追い求めるものでもないとは思うのですが、精神衛生上的にも、仕事は「あくまで世の中に少しばかりの価値をもたらす経済活動」って割り切った方が良いとは思いました。会社にいると使えるリソースも多く、それだけその経済活動の幅は大きくなりますが、それと身近な人を大切にすることは全く別の宇宙の話で、どっちが大事とか比べられるものでもない。同じだけ重要だし、同じだけ真面目に考えるべきなのだと思います。

まぁ、そんなんが最近仕事について感じることです。

今日は、以下の本について考えていきたいなと。

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アートと経営
って相反するもので、結びつきがあまりなさそうなのですが、近頃アートを学ぶ経営者が増えているのだとか。

確かに、最近経営にアートという観点を持ち込む事例が増えているような気がします。例えば、デザイン思考という言葉だったり、マッキンゼーがデザイン会社を買収したケースだったり。

なぜアートの要素が経営にもたらされるのかっていう問いに関しては、やはりアートが経営に役立つからと言わざるを得ないでしょう。この本は、その理由に関して大きく3つの観点から説明してます。

1.論理的・理性的な情報処理スキルの限界が露呈しつつある

経営において、アートと対極にあるものはロジックです。そしてそのロジックこそが、多くの企業の中で、経営における一番重んじられるものとして扱われておりました。

なぜロジックが重んじられるかと言うと、ロジックには「アカウンタビリティ」があるからです。簡単に言うと、ロジックにより意思決定における説明が可能となるからです。また、ロジカルシンキングにおける正解は常に1つであり、その1つの正解にたどり着くことで安心感をもって経営の意思決定ができていたということでしょう。


しかし、変動性と複雑性が激しいこの世の中(VUCAワールド)において、正解が一つということはありえません。様々な要因が、世の中を動かしている今、与えられた正解に速くたどり着けるというロジカルシンキングスキルはコモデティ化してしまい、あまり価値をもたらすものではなくなってしまいました。コモディティ化したものの価格は下がります。

②世の中の市場が「自己実現的消費」へと向かいつつある

簡単に言うならば、「すごい」とか、「かっこいい」、「かわいい!」って周りから言われるような消費の市場が全世界的に広がりつつあるということです。

わかりやすい例で言うと、かわいいパンケーキ屋の写真をインスタに投稿するために列に並んだり、男で言うと、渋いジムでめっちゃ頑張ってトレーニングしている自分をインスタに投稿するためにジム会員になる(僕くらいかな)こととかですね。

いわば、物がもたらす経済性よりも、自己実現のためにたくさんのお金を使う人が多い世の中で、美しいもの、クールなもの、かわいいもの、でないものは見向きもされないので、人を惹き付けるよなデザインや、それをもたらす美的感覚が経営において必須ということでしょうね。

 

③システムの変化の制定にルールの制定が追いつかない状況が発生している

最近ですと仮想通貨等が良い例かと思いますが、テクノロジーやシステムの変化に対し、法律の制定が追いついておらず、経営においてやって良いこと/悪いことグレーゾーンが広がりつつある状況の中、意思決定における明確の基準として、アートが重宝されるとのことです。

これはアートというよりも、「美徳」や「美学」という言葉の方がしっくりくるかと思います。要は、外部要因は関係なく、自分の中で一本筋をもって貫き通している考え方や生き様のことかと思います。

「法律には明文化されていないグレーゾーンだからやっていよい」でなく、「その意思決定は自分の美学に沿うものか」を軸に考えていくことが必要であり、その美学を蓄積していくための手段として、哲学やアートが重んじられるのです。


本の内容を要約するとこんな感じです。次に、僕の思ったことを書いていこうかと思います。

まず思ったのは、アートというのは、絵や音楽作品そのものというより、「考え方やそのプロセス」なのだなぁと思いました。

絵を書いた結果としての作品、音楽を奏でた結果としての作品そのものよりも、そのプロセスにこそ意味がある。そのプロセスにおいて、どんなことを感じたのか、それは気持ち良いのか気持ち悪いのか、美しいのか嫌なのか、そういった感情や感性の変化こそがアートの真髄で、その感情や感性の変化や変動性こそが、経営においても役立つ要素となるのだと思います。

なんでかっこいいと思ったんだろう。なんで気持ちいいと感じたんだろう。

その問いの先にこそ、自分なりの美学や美的感覚の答えがあるし、その答えこそが人生における選択や行動の基準となるのではないでしょうか。

また次に思ったのは、人生は無駄なものがあっても良いし、その無駄なことこそが価値になるということです。

この本を書いた人は、元BCGのコンサルの人なのですが、コンサルみたいな頭の良い人の中で文学に親しんでいる人って、本当に少ないみたいです。正解を最速で導き出すプロとしてのコンサルは、文学は読むのに時間がかかってROIが低いと考えているのかもしれません。

しかし、「すぐ役立つものはすぐ役に立たなくなる」という言葉があるように、コンサルのフレームワーク的な知識よりも、読んで理解するのに時間がかかる哲学や文学等の基礎教養が、もしかしたら一番役に立つのかもしれません。そういった観点で、もっと僕の人生に無駄なものを取り入れてもいいのかなって思いました。

また最後ですが、僕がアートと自負している「仮名」に関しては、誰よりもうまくなろうと決意しました。

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平安時代の仮名は、本当に美しいです。前にもどこかで書いた気がするのですが、仮名遣いや配置、筆遣い、和紙等の仮名におけるすべての要素が、日本的な柔らかくて繊細でもある美的感覚の集大成だと僕は思うのです。

僕は偶然仮名を学ぶ機会があり、今でも月1で先生に習っておりますが、この仮名を誰よりも極めようと思いました。「何をもって極めたと言うか」は難しいですが、とりあえず「最近仮名が書けるイケているやつといえば八幡かな」っていつか日本文化界隈で言われれば良いかと思います。

以上です。

この本もめっちゃ面白いので、みなさま購入して読んでみてください\(^o^)/

 

いい人でいるのは結構たいへんだしコツがいるのではという話

昨日、ある記事を読んだ。そんなに長くないし、文章もとても読みやすいので、ぜひとも皆さんにも読んでいただきたい。

 

note.mu

 

この記事は、僕にとってかなり印象に残るものだった。なぜなら、僕が思う、「どんな人間が一番魅力的なのか」の答えがそのまま書いているからだ。

最近、なぜか色々な人と飲む機会が増え、色んな人と話し、多様な人柄に触れるようになった。その中で、「この人は本当に面白いな。好きだな」っていう人がたまにいて、そういう人ってどんな人なんだろう、って自分なりに考えているさなか、この記事を読んだ。

この記事に書いてある田中さん(仮名)というのは、上の質問の答えである人柄にかなり近くて、なるほどなぁと思いつつ読んだ。まとめると

  • 配慮ができ、気の利き具合がすごい
  • 自尊心が高い(相手を見下すのでなく、自分なりの筋を必ず通すという意味で)
  • 今を生きている
  • 相手の立場になり言葉を受け止め、真摯に思うことを返答する
  • 上記をまとめると、人から「信頼」を得ている

という人柄に僕は惹かれるし、僕自身がそういう人間でありたいと思っていることに気がついた。

でも同時に、上記でまとめあげている要素なんて超ありきたりで、10人に聞いたら9人は良い人の要素として上げそうなものである。要は、良い人になるための答えってけっこう自明なものなんだろうなというのが、僕の仮説だ。

自明なものでも、それを実践でき人って実は少ない。なんでなんだろう?

その答えがわかったら苦労しないが、なんとなくだが、人に承認されたい、人から愛されたい、自分をすごいと思いたいという、承認欲求が関係していると僕は思わずにはいられない。承認されたいからこそ人を見下すし、承認されたいからこそ嘘をつくし、承認されたいからこそ頭が良いふりをする。少なくともそういう経験が僕にはある。

そしてその承認欲求は、人としては持つのは当たり前のことであり、それを捨てるのは、かなり難しいことである。承認欲求を捨てるということは、ある意味人間臭さがなくなるということでもある。

ただ、この記事の田中さんのような限られた人、僕の拙い経験則で言うと、20人~30人のなかに1人は、承認欲求から自由になり、心から自分に自身をもっている人がいる。人に優しくし、配慮できるのも、相手の意見を受け入れられるのも、確固たる自分への自信の裏返しであると思う。

そういう自己愛は、生まれつきもったものでもあれば、教育により授かったものでもあると思う。しかし、先天性であれ後天性であれ共通して持っているのは、「自分はこういう自分でいいんだ」という自己肯定感であり、それはある意味「これは自分はできるけど、これは正直だめだなぁ。だからこういう強みを生かして頑張ろう」というメタ認知でもあり、同時にあきらめでもあると思う。

人は一人ひとり違うという前提のこと、自分の強みも弱みも受け入れる勇気を持つこと。そして一人ひとりがそういう勇気を持てるように、周りの人がその人の強み弱みを気づかせてあげるだけでなく、受け入れること。

それが田中さん(仮名)のように皆が幸せに生きるための秘訣なのかなぁとなんとなく感じた。おわり。