Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

なぜ対話が重要なのか

僕だけなのかしら?

最近やたらと「対話は重要」っと聞く。

なんで重要なんだろう。そもそも対話ってなんだろう。

そんなことを今日は考えたいと思う。


兎にも角にも、「対話」の本当の意味を知らないと、話が進められないので調べてみた。

kotobank.jp

 

むむむ・・・よくわからん・・・

辞書は頼らず僕の言葉で書こう。対話とは

相手の話を真摯に聞き、自分のことも理解してもらい、双方納得しながら話しをしつつ、アウトプットを生み出すこと

だと考える。これは完全に僕のアイディアだ。

仮に上記の定義がまぁ正しいとしよう。そこで、なぜ対話は必要なのか、なぜやたらと最近重要視されるのか??そのことについて考えてみよう。



逆に対話が成立していないシーンを考えてみる。
この場合は、対話の定義と全く逆のものを考えればいい。すなわち

どちらかが一方的に話しをし、相手が納得せずともどちらかが意図した結論に勝手に導かれてしまうこと

とでも言おうか。

うん~、こんなことを書いているうちに、思い当たるシーンがいっぱいあるぞ。。

僕は新卒3年目の社会人だが、経験としては10年くらい働いている先輩、上司からはどうしても劣ってしまう。その経験の浅さ故に、時として、納得せずともとりあえず上司から言われた通りにやってしまうこともあるものだ。

また、これは社会人関係なく言えることがだが、なかなか対話が成立しないケースには、ある共通点があるものだ。それは、話している相手が自分自身を「頭が良い」と思っているケース、そして自分自身の考えが「正しい」と思っているケースである。

その人からすると、

俺は頭がいい/たくさんの経験がある → 俺が考えることや導き出す結論は正しい → 俺が出した結論以外はクソ

という、周りから見たらどうしようもなくめんどくさいロジックを頭で回してしまっていることが大いにある。

ただ、このような「頭がいい」人のロジックは、正直全面的にバカにできるものはなくて、これまでその人が経験した達成や成功に裏打ちされたものも多い。そしてその裏付けのある経験が、その場その場の問題や課題をいとも簡単に解決できることも往々にしてある。では、この考えかたの何が問題なのか?

それは、「相手を受け入れる器量が無い」ことである。
自分の考えが絶対正しいと思っている人が、相手の考えや行動をそう簡単に受け入れられるだろうか?

では、「相手を受け入れられる器量が無い」ことはなぜ問題か? 例えば、ある「頭が良い」人の考えが、第三者の目線からも見ても正しいものであったら、仮に相手を受け入れなかったとしても、それはそれで問題無いのではないか?

僕は、やはり相手を受け入れらないことは、その人の考えがどんなに崇高で正しくても、問題だと思う。

なぜなら、その「正しい」考えを押し付けられた相手が嫌な気分になるからだ。

嫌な気分になるから・・?それだけ・・?

と、思った人もいるかもしれない。僕はそれに対して反論できない。

 

少し話しが変わるが、皆さんは、ピーター・ドラッカーという人を知っているだろうか。

かの有名な『マネジメント』という本を産み落とした学者さんである。

ja.wikipedia.org

 

僕は、彼が提唱する「マネジメント」のあり方が大好きだ。

彼が言うマネジメントは、管理や統制等ではない。彼が言うマネジメントの本質を、僕なりの言葉で噛み砕いて書く。マネジメントとは

  • 会社がその社会的使命・目的を果たすために
  • また、その会社で働く個人がその自己実現と幸せをサポートしながら
  • 会社内の主に人的リソースを「やりくり」する

ことである。僕がこのドラッカー氏の言うマネジメントで好きなのは
会社の使命の全うと個人のHapinessを両立して考えていること である。

そう。働くことは、試練でも、お金という対価の代わりに甘んじる苦渋でもなんでもない。働くことはすなわち、個人のHapinessにつながらないといけないのだ。

個人が幸せに働けない会社は、それはマネジメントが欠落しているからなのだ。



話は戻って、なぜ対話ができないことはダメなのか?という問いに戻ろう。
その答えは、単純に話しをしている双方が幸せになれないから、というシンプルなものとなる。(そしてそれは、組織の中では、個人の幸せが第一優先として扱われるべきだ、という前提に立っている)

また、ドラッカー氏は、『マネジメント』の役割としては、

の2つしか無いと言っているが、このうちの「マーケティング」は、顧客の欲求を起点とするべきだ、と断言されている。

どういうことかと言うと、「自分が持っているものをどう売るか=プロダクトアウト」ではなく、「顧客は何を求めていて、その欲求を満たすためにはどんなことができるのか(=ソリューショニング)」という目線で考えるべきということだ。

そう、対話ができない「頭が良い」人は、自分の考えや知見を「プロダクトアウト」しているにすぎない。それで相手が喜ぶだろうか。

そいて、プロダクトアウト的な考え方がはびこる組織が、本当に顧客の創造、すなわち顧客のニーズを考えぬくことができるだろうか?いや、できるわけない。

少し長くなったが、この辺で締めるとしよう。

 

対話がなぜ重要か?

それは、対話において必要な「相手を受け入れる」という基本スタンスは、ビジネスにおいてなによりも重要な、相手の意図・欲求を理解するということと直結するかつ、身の回りにいる人の幸せに間接的に良い影響を与えるからである。


僕も日頃から、高圧的、独断的にならないように気をつけたいことだ。ちなみに僕がこの記事を書いたきっかけは、実は僕自身が対話的になれなかったシーンが最近多かったからである。

対話的になれないとき、人は自分のことを「頭いい」という自己肯定で満たされているときだけでなく、自分のことが「かわいそうだ」という自己否定で悩ませれているときでもあることを知った。僕は最近、自分のことが可愛そうで可愛そうで仕方がなく、相手を受け入れられる余地がなかったのである。

それは、まさに不幸自慢であり、自身の不幸によりマウンティングをとってしまう、心理学者のアドラー氏が危惧していた現象でもある。

 

そんな戒めとしてこんな記事を書いた。

 

 

じゃ、あでゅ~^^