「親友」という言葉の持つ意味
昨日、ある友達と飲んだ。
UCBerkeleyで友達になった、東大出身で今は外資系投資銀行のトレーダーとして、うん千万と稼いでいる男である。(そして例に漏れず不動産投資に勤しみ、早期リタイアメントのための戦略を着々と進めているのであった)
何回かブログで書いている気がするが、彼はまさに「天才」で、まぁ彼と話すと色々面白いものだ。金融マーケットから見る世界経済の中の日本の経済の今の話であったり、不動産投資の話であったり、最終的にはいつも「生きる意味」ってなんだろうね。ぶっちゃけ無いよね。ていうオチになってしまう。(そこはなんだか青臭い)
学生のときは、ある問いに関するディスカッションになれば、彼のその頭の回転の良さから途切れる事無くでてくるロジックのオンパレードに舌を巻いたものの、魅力的でもあり、かなり大きな影響を受けた男でもある。
また、一緒にバンドを組み、曲がりなりにもJazzらしきものを一緒に演奏し、一緒に語り合い、ずっと一緒に音楽をやることを夢見た相手でもある。(ちなみに、彼は絶対音感を持ち、聞いたものをその場で弾けるという才能の持ち主だ)
そんな男と昨日飲んだ。
学生のとき、彼と話していた感覚とはまた違う。
「すげーな、めっちゃ金稼いでいていいな」、という気持ちはあるが、その彼に対し僕はいまさら羨望の眼差しは向けないし、僕も今や結婚して世帯を持つ身。なんとなくの考え方や哲学というものは持っていて、そこからブレることも特に無い。
が、しかし。僕は昨日ある言葉にかなり揺さぶられた。
「親友」という言葉にである。
昨夜、神田で飲んだ後、すぐ近くにある彼の家に遊びに行ったのだが、彼の彼女もいたので、彼からお互いを紹介してもらうとき、僕のことを「親友の」という枕詞をおいてくれたのである。
僕は、そのときはなんかちょっと恥ずかしいな。て思ったものの、今朝振り返ってみると、なんだか不思議な感覚に陥った。
八幡は周りからどう見られているか正直わからないのだが、僕は本来はかなり自分本位な男で、とにかく周りに合わせるを嫌う。自分の時間が何よりも一番大切で、反りの合わない人と無理に合わせて付き合うくらいなら、自分から背を向けてしまう。
中学はそんなことなかったけど、高校は男子校で3年間同じクラスだったが、本当に心を許せる友達はおらず(幸い他のクラスにはいたのだが)、大学ではサークルに入るも馴染めず2週間で辞めてしまう。ゼミも辞めてしまう。ただ一人ずっと英語や政治経済の勉強をして、米国に留学することを志していたのだ。
そんな僕に、「親友」と呼んでくれる人がいるのは、「まじか」とちょっと驚きをかくせなかった。
と同時に、ありがたいな。今まで自分なりに一生懸命生きてきてよかったな。と思った。
そして、僕はある決断をした。
米国にいたときの彼との約束を果たすときがきた。
僕は、ギター教室に通い、いつか彼と一緒に演奏をするため、Jazzギターを習うことを決めたのだ。
留学終わった後に、なんとなく演奏する機会が無く、就活等の忙しさにかまけ、全く演奏を辞めてしまっていたのだが。
会社に入っても、営業として結果を出しても、ずっっっっと心にひっかかる何かがあった。それは、ずっとJazzを演奏し続けて、上手になって、いつかバーやクラブで一緒に演奏しよう、というあのときの彼との夢が置き去りにされていることだった。(彼自身は、バンカーをやりながら着実にJazzピアノを鍛錬していき、今や本当にすごい腕前である)
その夢は、僕は一度あきらめた。
だが、昨日の彼のあの言葉、そして彼が昨日弾いてくれた「Someday my prince will come」は、僕があの夢をまた強烈に抱く結果になるのに十分なほど巧すぎた。
といことで、今日は仕事が終わったら、麻布のヤマノミュージックサロンに行って、入会をしてこようかと思う。
運命を信じるだろうか?
僕は信じる。
「嫌われる勇気」の本質は課題を分離し、自分の課題に全うすること
皆様は不眠症だろうか。
上記で不眠症の種別や定義が色々説明されているが、僕自身は、「入眠障害」を2回くらい経験したことある。
1回目は高校のときで、1時間~2時間くらい寝付けない日々が1年か1年半くらい続いた。
2回目はつい最近まで続いていた。社会人になってからの毎週日曜日夜である。日曜日夜は毎週寝付くのに3時間~4時間くらいかかることがしばらく続いた。
なぜ寝れないのか?
答えは色々あるのだが、端的に言うと「不安だから」だ。
高校のときは、受験で塾の先生や家族のサポートをレバレッジにして、偏差値的にも賢さ的にも日本有数の高校に合格してしまったため、「勉強についていけるだろうか?? ちゃんと大学に行けるだろうか??」と毎日悩んで寝れなかった。
社会人になってからは、ここは皆割と共感するだろうが、「ちゃんと仕事を進められるか?お客様に怒られないだろうか?」等を悩んで日曜日は本当に寝れなかった。
僕はすごく神経質かつ完璧主義なので、些細なことが気になって気になって仕方がなくて、高校のときも、社会人になってからも精神的に張り詰めた日々が続いた。特に気になるのは、「周りの目」である。
僕は正直言って、周りから優秀と思われたいと思っていた。(まだ思ってるかも)
周りから優秀だと思われたいがために、勉強についていけないなんて状況や、仕事で失敗して周りに迷惑がかかるなんて状況は絶対避けなければならない。
そのためにはできることは、寝る時間がなくなってもやり抜かなければならない。
割とガチでそう思っていたのだ。そんなこと考えたら、安静に寝れるわけない。
この思考が功を奏したことももちろんあったが、正直ここ最近疲れてしまい、このままだとまじで鬱になる!!!と手にした本が以下である。
この本は、3年前かそこらにかなり有名になったので、手にした方も聞いたことがある方も多いかもしれない。
この本は、アドラーの心理学を、ある哲学者と僕みたいな自意識過剰な若い男の対話形式で説明している。
アドラーは、どうやら心理学分野の三大巨塔の一人であり、彼の心理学(もはや哲学とも言えるかもしれないが)は、特に欧米で大きな支持を得ているらしい。(どれくらいかはしらん)
簡単に言うなれば、僕は現在、この本にだいぶ救われている。「人からまぁどう思われていもいいかな」となんとなくだが感じるようになったし、日曜日もしっかり寝れるようになった。
この記事では、この本の要旨を簡単にまとめたいと思う。全部をまとめるのは無理なので、一つのキーフレーズである「課題の分離」について説明したい。
「課題の分離」とは、課題を分離することである。
どういうことかと言うと、ある課題や問いに関して、「これは自分の課題なのか、もしくは相手の課題なのか」を考えるということだ。
例えば、「テストで高い点を取るために勉強すべきか?」という問いに関して、「高い点をとって、自分が望む成績を取り、望む大学に行きたい!」と望むのであれば自分の課題となるし、「高い点をとって周りに好かれたい」は相手の課題となる。
より噛み砕いて説明すると、自分でコントロールできる範囲の課題や問いについては、自分に関係することなのでしっかり取り組むべきだが、自分がコントロールできない範囲(相手に好かれる、相手から評価される等)は、気にしても無駄なので、自分の思考や行動から分離させるべきだ。というのが「課題の分離」の本質となる。
考えてみると、僕たちはかなり周りの目や評価を気にして行きていると思う。
無理もない。半期に一回は人事評価があるし、変なこと(そうでなくても、角が立つものや笑いものにできるもの)を言ったりしたりしたらすぐ裏で拡散されるし、とにかく周りの言動と自分の言動が蜜に結びついているのだから仕方がない。
ただ、本質的には周りがあーだこーだ言ったり考えたりするのは、僕たちの問題ではない。周りの問題だ。言いたいことは言えばいいし、やりたいことはやればいい。僕たちの課題に全神経を集中させ、命を燃やすのが良い。
ただ、偉そうに僕もこんなことを書いているのだけど、それでも周りを気にしてしまい、自分を表現しずらくなるのが人間の性だ。それは仕方ない。そこで必要なのが、「嫌われる勇気」である。
課題を分離し、自分の課題を全うするのは、ただ考えてできるものではなく、「勇気」が必要なのである。
ではその勇気はどうしたら付けられるのか。
それは僕たち一人で身につけられるものではない。周りの助けが必要だ。
具体的に言うと、周りへの「ありがとう」と周りからの「ありがとう」が必要だ。
周りからありがとうと言われること。それはすなわち、自分の存在に対し、他人がありがたがって、喜んでいるということ。
何か良いこと、偉大なことをしたその。そ行為により褒められるのでなく、自身の「存在」そのものを周りが受け入れられることして自分も周りを感謝の気持ちを持って受け入れること。
具体的に言おう。
例えば、「何かが他人より秀でている」とか、「何かすばらしいことを成し遂げた」ことにより称賛を与え、評価をすることが土壌にあると、「優秀である」ことや「実績がある」ことに重きが置かれ、逆にそうでない人は「ダメ」というフレームが自然とできてしまう。
そうすると、優秀であり、頭が良ければなんでも許されるという誤解が生まれてしまうし、常に「俺はあいつよりできるやつか」という周りの中で自分を相対化し、自分の至らなさに嘆き、苦しみ、他人の目を過剰に気にする世界ができあがってしまう。
そうでなく、相手のDoingよりは、お互いのBeing(つまり、そばにいてくれること)自体に感謝を重ねられる社会になれば、僕たちの課題の中に、評価や競争等といった言葉はなくなるはずなのだ。(自分自身との競争は、自分の課題の範疇なので有りえるだろう)
まとめると、感謝の気持ちと自分が周りに貢献できているという感覚があれば、僕たちは周りからすごいと思われたい承認欲求から自由になれるというのがアドラーさんが言っていることだ。
この、行為の良し悪しや、有効性の有無により承認、評価されるのでなく、存在そのものをありがたいと感じ、また自分も相手のために貢献しようという感覚、それをアドラーは「共同体感覚」と呼んだ。
僕たちが持つこの不安を開放し、幸せに導くのは、この「共同体感覚」なのだ。
ではこの感覚を持つために僕らは何をするべきか??
- 眼の前の人に「ありがとう」と言うこと。また、ありがたかったことを忘れないこと
- その人の存在を当たり前と思わず、その人との毎日を噛みしめること
- 家族を大切にすること。友達、仕事仲間を大切にすること
などが言えると思う。
また、課題の分離については、その課題が自分か相手のものかだけでなく、自分のものであれば、何%くらいのリソースを使うのか、ということを考えると、精神が安定すると思う。
仕事が80%の人なら、仕事の課題に関しては抜けもれなく、全力で取り組めばいいし、家族50%、仕事30%、趣味20%という人であれば、そのパーセンテージ以上の時間リソースは絶対に使わない、という範囲を決めると良いと思う。これも一つの課題の分離の形である。
長くなったのでここまでにするが、
ぶっちゃけあなたのことは、周りはそこまで気にしてない
である。
その事実は実感しにくいし、むしろ僕らの本能が実感したくないと捉えているかもしれないが、少なくともそう考えた方が幸せになると思う。
周りは周り、僕は僕である。
ただ、それは周りに冷たくすることではない。「これはあいつの問題だから」、介入すせずに見守ることであり、「これは俺の問題だ」と思うことは、周りがどう思おうが貫き通すことだ。
そのために、周りと一定の距離を保ちながらも、その存在に対し感謝の気持ちは忘れず、その存在が困っていたら、助けてあげたいと思うこと。
それが明日へと踏み出す勇気となるのであーる
乃木希典の生き様からふと思う現代人の憂鬱
今日は、第三日曜日
港区スポーツセンターは、港区民に優しく、第一第三日曜日は、港区民はなんと入場無料という太っ腹なやつである。
港区スポセンのジムは、人は確かに多いけど、その分広くて器具もいっぱいあるし、申し分ない環境なので、無料日はすかさずダンベルと遊びにジムに行くのが日課だ。
ただ、今日はなんとなく天気も良いし、久しぶりにランニングでもしようかなーっと、筋トレは家の中でとどめてランニングをしに行った。
せっかくだから、行ったことのないところに行ってみようと思い、いつも自転車で行く六本木を通り過ぎ、乃木坂の方まで休み休みランニングで行った。
乃木坂ってなんで「乃木坂」というか知っているだろうか。
僕は、今日まで知らなかった。乃木坂と言えば、すかさず「46!」、「白石とか西野とか何とか!」しか言えなかったが、今日、乃木坂は「乃木希典」という明治維新時代の日本帝国軍の大将の名前に由来することを知った。(乃木坂は、乃木希典が自決した最後の住処が立つ坂である)
そこは、乃木神社もあるし、旧乃木邸の敷地の一部を開放して、公園であったり、小さな博物館もあった。僕はその博物館で、その「乃木希典」の生き様を目の当たりにするのである。
詳しくはWiki、シンプルになら↑の記事を見て欲しい。
僕が、乃木氏の生き様で一番感銘を受けたのは、その死に様だ。
明治天皇の所謂告別式の日、彼は妻とともに自刃したのだ(所謂切腹)
彼の生き様を追っていくと分かるこのなのだが、彼の生き様はまさに「明治天皇のため」そのものであった。
まさに明治維新の節目、西南戦争で官軍側として参戦していた彼は、天皇の分身とも考えられている軍旗を幕府側に奪われてしまい、そのことをまさにほとんど「死ぬほど」思い悩み、精神病にまでなってしまったそう。
その後なんとかドイツ留学で持ち直し、その後はその愛国精神を元に、天皇に仕え、日本帝国に仕え、日清、日露戦争では大活躍をし、息子二人は日露戦争で戦死するものの、自身は最終的には日本帝国軍の大将になったとのことだ。
そして、生きる目的であった明治天皇がこの世のなかからいなくなったのと同時に、自身も、そしてその妻も、自ら刀を懐に突き刺し、その生涯を閉じたのだ。
僕はこの生き様に「すげぇ」と感銘を受けるのと同時に、「共感できるか?」という自らが立てた問いには「共感できないな」と強く思った。
『シンドラーのリスト』や、『ホテル・ルワンダ』を観た後もそうだった。
めっちゃ感動はするのだ。その主人公の生き様に。ただ、感性や時代背景が異なりすぎて、全く共感ができないのだ。
映画を観ているときに涙をしていても、その次の日にはその悲しみも感動もきれいさっぱり忘れてしまうのだ。
「だって、俺が生きてる日本そんな状況じゃねぇもん」、と思うのだ。
明治維新では、数々の若者が日本が欧米列強国からの侵略を防ぎ、軍事的強国にするためにその生命を犠牲にした。
第二次大戦時も、僕たちの祖父・祖母の時代の人が、飢えに耐えながら、数々の空襲に耐えながら、日本帝国のために生きた。
大戦後は、団塊世代が、より豊かでより幸福な日本のために、身を粉にして働いた。
そして公害や環境問題等、さまざまな成長痛に見舞われながらも、世界で2番目の富を生み出す国としての日本で、僕たちミレニアム世代が生まれた。
僕たちは、全員ではないが、基本的には衣食住にも悩まされないし、教育も施され、やれ大乱闘スマッシュブラザーズやら、やれ激闘忍者大戦やら、様々なテレビゲームに囲まれて育った。
僕たちは、「頑張らなくて良い世代」、また、「何かのために生きる必要が無い世代」とも言える。
戦時は「日本国勝利」、戦後は「高度経済成長」という共通目標があったのだが、僕らはそのようなコモンセンスは持ち合わせていない。
結果どうなるかと言うと、「将来どうすれば良いかわからない」とか、「何を目標として生きれば良いかわからない」僕のような若者が増えるのだ。
もちろん、僕らの中にも運良く生きる目的を見つけた人もいる。以前ブログで書いた気がするが、特定の「Do」のために生きている人もいる。
乃木希典は間違いなく、現代日本においても讃えられるべき、すばらしき人だが、現代においては、正直「Do」すれば偉いのか?すごいのか?って言われると、「そうとも言えないのではないか?」と思う。なぜなら、その「Do」により影響を与えられる範囲や効用が、過去にくらべ豊かな世の中だと、低減せざるを得ないと思うからだ。
では、特定の「Do」を持たない僕らはどう生きていけば良いのか?
この問いに答えはない。「お金のために生きる」とか、「恋愛のために生きる」とか、様々な答えがあると思う。
ただ僕が思うのは、「自分の好きにどれだけ正直になれるか」が、現代人がこの答えの無い世の中で幸せに生きるための最適戦略なのではないかということだ。
僕の感覚では、「好き」に理由は無いし、別にその背景もいらない。「好き」は「好き」だと思し、自分そのものの本質をそのまま映し出しているのが「好き」なのではないだろうか。
「会社が好き」、「音楽が好き」、「映画が好き」、「彼女が好き」、「仕事が好き」、「友達が好き」、「お酒が好き」、「筋トレが好き」、「家族が好き」 etc...
乃木希典にとっての「明治天皇」は、僕たちにとっての「○○が好き」でいいんじゃないだろうか。その「○○が好き」を否定せず、応援できるような環境、社会であって欲しい。
そんなことを思った日曜日だった。
仕事は「幸福」の一部でしかない
自己分析が進んで、だいぶ僕がこの先どう動けばいいかわかってきたところだ。
やはり人間、生きている以上は、「幸福の実現」がゴールになるのかなぁと思ってて、じゃあ今後どういう風に生きていったら「幸福の実現」というゴールが達成できるかなぁということを、これまでの経験から紐解いて考えていこうと思う。
- 自分が価値を認める「これができるようになりたい!」ができるようになったとき。(自分がどうでも良いと思ってることについては、できるようになっても意味がない...というか、できるようにならなかった)
(例:おしゃれしたいと思って原宿で服買っておしゃれと言われる、高校受験成功、バークレー留学実現、獲ると言った案件が獲れた、なんとなく◯◯が前よりできるようになった、事務作業はどんだけ頑張っても苦手) - 良い音楽を聴いているとき(または演奏しているとき)、良い仮名の作品や絵を観ているとき、もしくは自分で書くことができたとき
- 家族と酒飲んでだらだらしているとき
- 銭湯に入って瞑想しているとき
てな感じである。少し抽象化すると
に分けられる。ちなみに、この中で一番容量を占めているのは「自己実現」なのだが、その本質は「末っ子で今までちやほやされ好きなことをさせてもらってたから、今後も好きなことを頑張らせてくれ。結果出たら褒めてね」という、かっこいい自己実現ではなく、むしろ結構自分勝手でちやほやされたい欲である...苦笑
しょうがない。僕は末っ子で、今まで「これ欲しい」「あれやりたい」はすべて許してくれた親の元で育ったのだから。(この経験は、僕にとってのこの上ない資産である)
通常時、僕が生きていて一番時間を割いているのは仕事で、昨年はだいたい毎日10時間~12時間していた。控えめに言っても人生の半分くらいの時間を使ってしまっている!(ちなみに、僕は毎日6時間~7時間寝ているので、仕事以外の可処分時間は平日はほとんどないのだ。)
ただ、この人生の半分の時間で実現できる幸せは、「自己実現」の一部である。一部と言ったのは、仕事は自己実現が達成できるおもしろく、刺激的なものだけでなく、時間だけがとられる事務作業も多く含まれるからだ。
単純に思うのが、「コスパ悪くない?」である。
もちろん、「コスパ悪いので仕事は減らします」とか、「僕は仕事はほどほどに、趣味に生きるのです」とかを言いたいのでなく、なんとなく自分の時間とエネルギーの大部分を占める仕事について、ちゃんとゴール、つまり「仕事は何の手段なのか」を熟考せず、とりあえずたくさんの時間をかけて仕事をしている現状を変えたいのだ。
僕は生産性を上げないといけない。
仕事は「自己実現」の手段であるので、それをい短い時間で達成できるよう工夫しないといけない。
その中で自分が向き合わないといけないのは
- なんとなく時間はいくらでもあるという時間感覚の麻痺
- なんでも完璧にしないといけないという無駄な完璧主義
- どんな人からも好かれようとする意味のないお人好し
まとめると、自分の幸せに向き合う勇気を身に着けないといけないのだ。
1月7日から会社スタートだが、僕は生産性の鬼と化しないといけない。
頑張るぞ~
サイズぴったり≠洋服におけるカッコよさ
ZOZOスーツは世間を賑わせ、なんなら僕もけっこうぞっこんで、カスタムメイドのシャツやらTシャツやらジーンズやら買った。
そして先日、6月末に予約したこいつが届いたのだ。
ZOZOのカスタムオーダー2Bスーツである。
http://zozo.jp/shop/zozo/goods/32242214/
前澤代表が記者会見にて、自身のカスタムオーダースーツを来ながら発表していた2Bスーツは、まさに僕がZOZOスーツで作れるものとしてずっと待っていたもので、僕は仕事合間のランチ時間に、スマホで記者会見を見て興奮に包まれていた。
速攻ポチった。
それで、だ。
本来10月初旬に届くはずのスーツは、一回の納期延期をはさみ、12月の下旬に届くことになった。
まぁ、その時点でちょっとオコなのだが、まぁここはいいだろう。
で、だ。早速着てみたのだ。
僕がZOZOの2Bスーツを着たときの感想はこの方が代弁されている
この方の記事が9月で、僕のが届いたのが12月なので、少しは改善されたのかな?と淡い希望を抱いていた僕がバカだった、、、
ZOZO2Bスーツを来た僕は、ちんちくりんだった。
これ、忘年会にそのまま来ていったら笑い取れるんじゃね?レベルでのちんちくりんだ。
「なんでこんなことになってしまったのだ...」とこのちんちくりんに2万5千円払ってしまった僕は考えた。
僕の仮説は、
ZOZOはクラシカルなファッションとは何ぞやのアルゴリズムを持ち合わせてない
である。どういうことか説明する。
2Bスーツの前に僕がオーダーしたTシャツやジーンズは、この上なくぴったりで、かつ着心地も最高。見た目も申し分なかった。
なぜなら、Tシャツやジーンズは、(もちろん人の好みにもよるが)身体のサイズとぴったりであることが特に間違えではないからだ。
だから、ZOZOスーツで計測した僕の身体にピッタリのTシャツ、ジーンズは、僕にとってかけがえのないカスタムオーダーの衣類になり得た、が。
スーツはどうだろうか?
スーツは、僕も詳しいことはよくわからないけど、身体にピッタリであることが正解という類ではないのではないかと思う。
例えば、ウエストは少し細めに作ることで肩-胸-腰のラインを立体的に見せたり、パンツは細めに作ってスリムに見せたり...
おそらく、「身体にピッタリであること」以上に重要な、スーツや洋服におけるクラシカルな法則、ルール、IT風に言うとアルゴリズムが本来あるはずで、ZOZOはそこを見つける前に、身体にぴったりであることに重点を置いて作ってしまったのだ。
そう考えると、人間がなんとなく雰囲気的に、見た目的に「かっこいい」と思うものというのは、定量化することは簡単にはできなくて、そこの感覚的な「かっこいい」が分かる人こそ、おしゃれな人なんだろうなとは思う。
もちろん、縦と横の黄金比率であったり、色相的な組み合わせのバランス等、デザインで守るべきルールは最低限あるのだろうけど、やっぱり「おしゃれ」は感覚的なものも未だに多いにのだと思う。でないと、ぶかぶかのロンTがなぜおしゃれに見えるのか説明ができない。
恐らく詳しい人からすれば、ぶかぶかロンTのかっこよさも解明できるのかもしれないが、少なくともZOZOスーツでカスタムメイドできる服作りのアルゴリズムにはその感覚的なかっこよさは加味されていない。そこが加味されない限りは、アパレル店員もスタイリストも勝機はあるぞ。と思う。
だから、かっこいい!いかしている!という感覚は、無駄にするべきでなく、自分の中で大切にするべきだ。そこがもしかしたらITに代替できず、金になる種となるかもしれないとのだ。
ただ、それも時間の問題かもしれないが。
僕が「好きなもの」について抽象化してみる
昨日の31日は、両親と婚約者の4名で、「ボヘミアン・ラプソディ」を映画館で観た。
僕は2回目で、若い時武道館で生QUEENを2回も観たという母はもう3回目らしい。
率直に言うと、僕はこの映画が好きである。
ラスト30分は涙無しには観ることができない。
最近は「抽象化」という言葉が僕の中では流行りだが、じゃあここでも僕がボヘラプを好きという気持ちを抽象化してみよう。というのがこの記事の趣旨である。
まずは、だ。僕がボヘラプでまず涙するシーンは、2回ともフレディの以下のセリフなのだ
"I decide who I am"
フレディが自身のエイズをメンバーに打ち明け、いやいや、オレは同情は求めてないし、悲劇の主人公にもならない。オレが誰だかはオレが決める。オレはパフォーマーだ。
という文脈で言うセリフである。
僕はこのセリフの中だけでなく、映画を通して語られるフレディの弱さ、迷い、自己否定を知っている。その弱さを受け入れ、克服した上で"I decide who I am"はすごく痺れる。僕は毎日のように迷っているし、自分の中で受け入れられない部分もある。そして今僕は I don't know who I am状態だ。僕は何のために生きているのか、示すことができない。
そんな僕とフレディを対比し、憧れを感じながら、自分のの弱さを受け入れ、自分の芯の上で力強く生きるフレディに涙をするのだと思う。
考えてみると、僕が本当に好きな映画、『Eternal Sunshine』や、『メッセージ』も、どちらもSFながら自己否定や悲しみ、憂い等、複雑な人間心理の中で物語が進められ、最終的には『This is the way we are/I am/ things are』と、自分や物事のありのままを受け入れ、自分の中で決めたことを貫き通すという人間の強さを感じ、「いいなぁ」と思うことが多い気がする。
媒体が転じるが、音楽も、僕はストレートな曲、わかりやすい曲よりも、複雑でうだうだしてしまいそうな曲が好きだ。
ちょっと専門的な表現になってしまうが、僕は調和された和音より不協和音が好きだし、メイジャーコードよりはマイナー・コードが好きだ。Sus4コードが来たからといって、その後解決しなくても僕は気にしない。
だいたい同じ世代で、どちらも映画音楽を良く作る、日本のポスト・クラシックの作曲家、坂本龍一と久石譲であったら、久石氏がジブリの作品で創る、バッハの理論に則ったこの上なく「綺麗な」曲よりは、坂本氏が「怒り」で創ったような、全音階で創る気持ち悪くどろどろとした曲のほうが好きだ。
習字で言うと、僕は中国から来た漢字を太い筆で大きく書くよりは、日本で生まれたこの上なく繊細で細くて、弧を描く線が妖艶さを醸し出す「仮名」が好きだ。
まとめると、僕はシンプルさよりも複雑さの中に美しさを感じ、ただ強いだけでなく、弱さや自己否定の上に立つ強さに憧れるのだ。
僕自身も、そろそろ迷ったり、自分を否定するのは時期的にもう用無しである、と考えていて、迷いの中から生まれる本当の自分自身を見つけるために、こんな記事を公開で書いているのだが。。
メイジャーでなく、マイナーで良いし、途中で転調しても良い。そもそも調なんて制限をつけず全音を使って不協和音を奏でてもいい。
そんな曲(人生)で全然良いけど。
そろそろ「C」をドミソで全開で奏でてもいいタイミングなのではないか。
そう思うのだ。
添付は坂本龍一氏作曲、『怒り』のテーマ
行く年来る年に実家で ふと感じること
皆様
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
さて、僕の年末は、30から婚約者を連れて実家に帰っていた。
兄貴もロスから戻っていて、姉は旦那の実家の大宮にいたので、母方のばあちゃん含めて5名で行く年来る年を過ごしていた
なんだろう。実家というものはすごい好きだ。
というか、両親が好きだ。兄も姉も。
社会に出ると、色々な境遇の人がいて、必ずしも両親と子供との関係が愛情だけで結びついているわけでないことを知った。
それはエゴイズムだったり見栄であったり、まぁ色々あるのだが、少なくとも僕が両親と「愛」という言葉以外でしか結びつきを表現できないことは、きっとこの上なく幸せなことなんだろうと思う。
社会で結構活躍している人って、逆に不遇の境遇から反骨心と執念を糧に努力してきた人も多くて、僕みたいな人間って、周りから見るとすごく平和的でのほほんとしているんだろうけど。
こういう幼少期から恵まれた家庭環境で育ってきた僕だからこそ人に与えられるものは無いのかな? って最近考えたりする。
それは何かわからないけど。。。まぁ、不特定多数は難しいけど、目の前の人くらいには優しくできたらいいな。。と思う。
親父が来ているジャージ...それオレが中学生のときバスケ部で買った部活ジャージや...