Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

「嫌われる勇気」の本質は課題を分離し、自分の課題に全うすること

皆様は不眠症だろうか。

jssr.jp

 

上記で不眠症の種別や定義が色々説明されているが、僕自身は、「入眠障害」を2回くらい経験したことある。

1回目は高校のときで、1時間~2時間くらい寝付けない日々が1年か1年半くらい続いた。

2回目はつい最近まで続いていた。社会人になってからの毎週日曜日夜である。日曜日夜は毎週寝付くのに3時間~4時間くらいかかることがしばらく続いた。

なぜ寝れないのか?

答えは色々あるのだが、端的に言うと「不安だから」だ。

高校のときは、受験で塾の先生や家族のサポートをレバレッジにして、偏差値的にも賢さ的にも日本有数の高校に合格してしまったため、「勉強についていけるだろうか?? ちゃんと大学に行けるだろうか??」と毎日悩んで寝れなかった。

社会人になってからは、ここは皆割と共感するだろうが、「ちゃんと仕事を進められるか?お客様に怒られないだろうか?」等を悩んで日曜日は本当に寝れなかった。

僕はすごく神経質かつ完璧主義なので、些細なことが気になって気になって仕方がなくて、高校のときも、社会人になってからも精神的に張り詰めた日々が続いた。特に気になるのは、「周りの目」である。

僕は正直言って、周りから優秀と思われたいと思っていた。(まだ思ってるかも)
周りから優秀だと思われたいがために、勉強についていけないなんて状況や、仕事で失敗して周りに迷惑がかかるなんて状況は絶対避けなければならない。
そのためにはできることは、寝る時間がなくなってもやり抜かなければならない。

割とガチでそう思っていたのだ。そんなこと考えたら、安静に寝れるわけない。


この思考が功を奏したことももちろんあったが、正直ここ最近疲れてしまい、このままだとまじで鬱になる!!!と手にした本が以下である。

books.rakuten.co.jp

 

この本は、3年前かそこらにかなり有名になったので、手にした方も聞いたことがある方も多いかもしれない。

この本は、アドラーの心理学を、ある哲学者と僕みたいな自意識過剰な若い男の対話形式で説明している。

アドラーは、どうやら心理学分野の三大巨塔の一人であり、彼の心理学(もはや哲学とも言えるかもしれないが)は、特に欧米で大きな支持を得ているらしい。(どれくらいかはしらん)



簡単に言うなれば、僕は現在、この本にだいぶ救われている。「人からまぁどう思われていもいいかな」となんとなくだが感じるようになったし、日曜日もしっかり寝れるようになった。

この記事では、この本の要旨を簡単にまとめたいと思う。全部をまとめるのは無理なので、一つのキーフレーズである「課題の分離」について説明したい。


「課題の分離」とは、課題を分離することである。

どういうことかと言うと、ある課題や問いに関して、「これは自分の課題なのか、もしくは相手の課題なのか」を考えるということだ。

例えば、「テストで高い点を取るために勉強すべきか?」という問いに関して、「高い点をとって、自分が望む成績を取り、望む大学に行きたい!」と望むのであれば自分の課題となるし、「高い点をとって周りに好かれたい」は相手の課題となる。

より噛み砕いて説明すると、自分でコントロールできる範囲の課題や問いについては、自分に関係することなのでしっかり取り組むべきだが、自分がコントロールできない範囲(相手に好かれる、相手から評価される等)は、気にしても無駄なので、自分の思考や行動から分離させるべきだ。というのが「課題の分離」の本質となる。

考えてみると、僕たちはかなり周りの目や評価を気にして行きていると思う。

無理もない。半期に一回は人事評価があるし、変なこと(そうでなくても、角が立つものや笑いものにできるもの)を言ったりしたりしたらすぐ裏で拡散されるし、とにかく周りの言動と自分の言動が蜜に結びついているのだから仕方がない。

ただ、本質的には周りがあーだこーだ言ったり考えたりするのは、僕たちの問題ではない。周りの問題だ。言いたいことは言えばいいし、やりたいことはやればいい。僕たちの課題に全神経を集中させ、命を燃やすのが良い。

ただ、偉そうに僕もこんなことを書いているのだけど、それでも周りを気にしてしまい、自分を表現しずらくなるのが人間の性だ。それは仕方ない。そこで必要なのが、「嫌われる勇気」である。

課題を分離し、自分の課題を全うするのは、ただ考えてできるものではなく、「勇気」が必要なのである。

ではその勇気はどうしたら付けられるのか。

それは僕たち一人で身につけられるものではない。周りの助けが必要だ。

具体的に言うと、周りへの「ありがとう」と周りからの「ありがとう」が必要だ。

周りからありがとうと言われること。それはすなわち、自分の存在に対し、他人がありがたがって、喜んでいるということ。

何か良いこと、偉大なことをしたその。そ行為により褒められるのでなく、自身の「存在」そのものを周りが受け入れられることして自分も周りを感謝の気持ちを持って受け入れること。

具体的に言おう。
例えば、「何かが他人より秀でている」とか、「何かすばらしいことを成し遂げた」ことにより称賛を与え、評価をすることが土壌にあると、「優秀である」ことや「実績がある」ことに重きが置かれ、逆にそうでない人は「ダメ」というフレームが自然とできてしまう。

そうすると、優秀であり、頭が良ければなんでも許されるという誤解が生まれてしまうし、常に「俺はあいつよりできるやつか」という周りの中で自分を相対化し、自分の至らなさに嘆き、苦しみ、他人の目を過剰に気にする世界ができあがってしまう。

そうでなく、相手のDoingよりは、お互いのBeing(つまり、そばにいてくれること)自体に感謝を重ねられる社会になれば、僕たちの課題の中に、評価や競争等といった言葉はなくなるはずなのだ。(自分自身との競争は、自分の課題の範疇なので有りえるだろう)


まとめると、感謝の気持ちと自分が周りに貢献できているという感覚があれば、僕たちは周りからすごいと思われたい承認欲求から自由になれるというのがアドラーさんが言っていることだ。

この、行為の良し悪しや、有効性の有無により承認、評価されるのでなく、存在そのものをありがたいと感じ、また自分も相手のために貢献しようという感覚、それをアドラーは「共同体感覚」と呼んだ。

僕たちが持つこの不安を開放し、幸せに導くのは、この「共同体感覚」なのだ。
ではこの感覚を持つために僕らは何をするべきか??

  • 眼の前の人に「ありがとう」と言うこと。また、ありがたかったことを忘れないこと
  • その人の存在を当たり前と思わず、その人との毎日を噛みしめること
  • 家族を大切にすること。友達、仕事仲間を大切にすること

などが言えると思う。


また、課題の分離については、その課題が自分か相手のものかだけでなく、自分のものであれば、何%くらいのリソースを使うのか、ということを考えると、精神が安定すると思う。


仕事が80%の人なら、仕事の課題に関しては抜けもれなく、全力で取り組めばいいし、家族50%、仕事30%、趣味20%という人であれば、そのパーセンテージ以上の時間リソースは絶対に使わない、という範囲を決めると良いと思う。これも一つの課題の分離の形である。

 


長くなったのでここまでにするが、

ぶっちゃけあなたのことは、周りはそこまで気にしてない

である。

その事実は実感しにくいし、むしろ僕らの本能が実感したくないと捉えているかもしれないが、少なくともそう考えた方が幸せになると思う。

周りは周り、僕は僕である。

ただ、それは周りに冷たくすることではない。「これはあいつの問題だから」、介入すせずに見守ることであり、「これは俺の問題だ」と思うことは、周りがどう思おうが貫き通すことだ。

そのために、周りと一定の距離を保ちながらも、その存在に対し感謝の気持ちは忘れず、その存在が困っていたら、助けてあげたいと思うこと。

それが明日へと踏み出す勇気となるのであーる