真のコミュニケーション長者
今日は久しぶりだし、連投します。表題は、最近ずっと考えていたこと。
まず、コミュニケーションは、仕事をする上でも、生きる上でも絶対に欠かせないもので、それが上手でないと、それぞれの人が持つ自分の良さを十分に活用しきれないと思っております。
じゃあ、「コミュニケーション力とは何なのか?」というと、いろんな答えがあると思っております。
- プレゼンが上手
- ヒアリングがうまい
- 誰とでも気兼ねなく話すことができる などなど、、、
上記のようなことから一つ抽象度をあげると「相手の立場を想像しながら、最適な会話のやりとりができる」ということだと思うんですね。要はコミュニケーションそのもののコアは「想像力」であると。
質問された時、まずは相手が求めていることの本質を、相手の立場や様子から必死に想像して答えを考えること。またその答えを、相手の立場や物事の理解度、というような角度から適切にブレークダウンしてあげることも必要です。
上記のようなことは、日々の仕事でも身に染みていることだし、僕もブログで何回も主張してきた気がします。しかし、最近僕は、コミュニケーション力には、さらに上のレイヤーがあることに気がついてしまったのです。
まず、答えを先にいいますと「自分の感情と事実を分離して相手のことを受け入れること」です。
実は、相手の立場になって物を考えることは、日々それを意識しているならば、さほど難しくないのです。あとは、実践を重ねていくことで、「このシーンでこのようなことを聞かれている場合、答えるべきものはこれだな」という想像もパターン化を通してそこまで難しくなくなると思ってます。
コミュニケーションを通して一番難しいのは、コミュニケーションにおける自分の感情を明確に捉え、その感情がそもそもこのコミュニケーションにとって良いものか、悪いことなのか、という状況判断をしながら感情をコントロールすることなのです。
僕がなぜそう考えているかというと、まさに最近上記のことができない自分に気づいてしまったからです。
「坊主憎ければ袈裟(けさ)まで憎し」という言葉がありますが、要は、人間は個人的感情の奴隷となり、その感情が物事の判断にまで影響を与えてしまう、ということが往々としてあるわけです。
そしてその個人的感情は、誠に恐ろしいことに、事実(ファクト)の捉え方にまで影響を与えてしまうのです。例えば、「俺はあの芸能人は嫌いだ」という感情が働いた場合、Googleでその芸能人における悪い噂や失言などをどうしても拾い集めようとしてしまうモノです。それが例え、メディアの嘘ででっち上げた記事だったとしても。心理学用語でいうと、そのような、ある感情に沿ってバイアスがかかった行動や判断をしてしまうことを「確証バイアス」といいます。
まぁ、難しいことは脇に置いといて、人は好きなことに関しては、その好きという感情を前提に動いてしまうし、その逆もしかりです。それは各個人が思い当たることと思います。そして、面白いのは、そのような確証バイアス度が強い個人ほど、「俺は感情で動いておらず、あくまで中立である」と言い切ってしまうところなんですよね。
少し悪口を挟んでしまいましたが、感情的になっている時、まず「あ、自分感情的になっているなー」と気付けること。また気づいた上で「この感情は、ゴールの達成を第一として考えたときに、良いものとなりえるか、悪い結果を導いてしまうか」という判断を客観的に実施し、後者だった場合にとっさにその感情を押さえ込む、ということは、余程達観した人でないとできないと思うんです。逆にそれができる人こそが、真のコミュニケーションの長者だと僕は考えます。
僕は、そのような達観した立ち振る舞いができないからこそ、大の大人でもできる人が少ないからこそ、できるようになりたいと考えております。じゃあそのアプローチはなにか、と考えたときに、やはり
- 自分の感情の変化に敏感に気づくこと
- ISSUEドリブンかつファクトベースに物を考えること
の二つに尽きると思うんですよね。まぁこの二つが非常に難しいのだとは思うのですが。
コミュニケーションをとるとき、もちろん感情的であることが良い影響を与えることもあると思います。親友との忖度ない、感情的なコミュニケーションは、友情を雨降って地固まらせると思うし、夫婦間でも、感情ドリブンでのコミュニケーションがWorkする場合もありますし。
一方、コミュニケーション時、自分の感情を第三者的に捉えられると、コミュニケーションのレベルが一つ上になるような気がしてます。まぁ、、、、人間は感情の奴隷だし、すっっっげーーー難しいことだと思うんですけどね。 おわり。