Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

人は、自分に期待せずに生きれるものなのか。

仕事から帰ると、いつも20分くらいダラダラとFacebookのタイムラインを眺めている。

気になる記事が目につくと読んだりするのだが、たいていは時間の無駄だ。そんな中で、最近とても印象が残る記事があった。

blog.tinect.jp

 

「仕事ができる人は、人に期待しない」

簡単に記事で言われていることをまとめると、

  • 仕事ができる聡明な人は、他人にも自分にも期待しない
  • なぜなら、期待を持てば持つほど、期待通りにならなかったときに苛立ちや恨み等の負の感情を持ってしまうから
  • なので、上司部下や会社、自分の子供も含め他人に良い意味で期待せず、「やってみて、できなかったら仕方ない」というスタンスで接すると、お互いストレス無くハッピーにすごせる
  • また、自分への期待も傲慢に繋がってしまうので、自分の至らなさを知り、他人の力を借りようとするべき

 

という感じだ。

僕は就職する前、塾の先生をしていたので、上記のような感覚が大切なのは、身を持って体験している。生徒と自分を同一化してしまい、期待してしまうと、その期待が裏切られたときは僕自身が辛いだけでなく、「自分が裏切ってしまった」という、本来無くても良い感情を生徒に持たせてしまう。お互いの破滅に繋がってしまう。

仕事でも全く同じで、後輩に「君はできるはずだ」と期待すればするほど、期待になかなかそぐわないとイライラしてしまうし、それが相手に伝わると、やはり嫌な雰囲気になるものだ。

感覚として分かるのだけど、頭で理解するのと実践できるのは全くの別物で、難しい。人は感情的な生き物なので、人に期待してしまうのも仕方無い。だからこそ、自身の感情をコントロールして、他人に「期待しない」というのができるのは、できる人とブログで表現されているのだと思う。

また、僕が「人に期待しない」こと以上に難しいと感じるのは、「自分に期待しない」ということだ。

人間は、まぁたまには他人への献身が先立つ人もいるのだと思うけど、やはり自分に期待してしまうものだとは思うのだ。

「もっとできるはず」「もっともっとイケてる人間になれるはず」「もっとお金を稼げるようになるはず」「もっと人から尊敬されるはず」

能力が高い人ほど上記のような感情は持っていると思う。そして、それらの感情を燃料にして、更に能力をあげ、実際にでかいことを成し遂げる人もいるだろう。その達成感というアドレナリンは、さらに自分への期待を高めてしまうと思うのだ。

その、一種の努力の燃料でもある「自分の期待」を捨てることなど簡単にできるのだろうか。人よりも自分が劣っていることを簡単に認め、人の力を借りることを素直に実行できることは、どんなに難しいだろうか。

今までの27年を振り返ると、僕は僕よりも優れた人が身の回りにいる環境に身をおいていたと思う。高校にしろ、留学先の大学にしろ。本当に自分とレベルが違うので、一瞬「あ、やっぱり次元が違うな。努力でどうにかなるレベルじゃない差があるな」と感じることも多かったのだけど、しばらくするとやっぱり自分への期待が再燃してしまうのだ。

しかし、自分への期待が全く消えて無くならないからこそ、ちょっとした努力だとか、頑張りみたいなものをずっと続けてこれたと思うのだ。その期待を消えて捨て去ってしまうと、自分がどうなってしまうか想像すらできない。

もちろん、人間一人ができることなど限られていて、どう考えても周りの力を借りれる方が大きなことを成し遂げられるだろう。それも頭でわかっている。頭でわかっていても、自分への諦めができなくて、自分の向上に時間を使ってしまう。

今、自分の向上のことにリソースを割いている僕は、やはり子供っぽいのだろう。
その子供っぽさがこの先自分自身に何をもたらすかは、想像できないと思いつつ、なんとなく想像ができる。僕ができることは、このままだと頭打ちになるだろう。

その頭打ちになったタイミングで、自分自身を諦められるか、諦められずにさらに自分に期待をするかは、その時の僕の状況が決めるかもしれない。少なくとも、頭では後者であることを願っている。だが同時に、僕が僕を諦められるほど大人になれるかということについては、ある意味期待できないことだ。