改めて考えたい、問題解決について
今では年間70冊くらい本を読むが、僕が読書をし始めたのは21歳のころだ。
きっかけは忘れてしまったが、ブックオフで古本を3冊買って、その日に読みだしたことで僕の読書人生が始まった。
1冊目は、僕が個人的に大好きな投資家である、藤野英人さんの『投資家がお金よりも大切にしていること』だ。
2冊目は忘れた。
3冊目は、堀江貴文さんが、出所後に「働く」ことに対して書いたエッセイをまとめた『ゼロ』である。
この本は、基本的に働くことは「自分の特技やできることを活かし、人のために役立つこと」と定義しており、そのときまで働くことに関する実感があまりなかった僕は、「へぇ、働くことって辛そうに思えるけれど、結構良いことなんだな」となんとなく感じたことを覚えている。
また、印象的だった言葉に「悩むことは問題を複雑にすること。考えることは、問題をシンプルにしていくこと」というのもある。
今日話したいのは、「考えること」についてだ。考えることの意味合いについて考えてみたい。
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「考える」とはどういうことか。
抽象的な言葉なので、あまりその本質について考えたことが無い人も多いかもしれない。
仮に、考えることが堀江さんの言うとおり「問題をシンプルにしていくこと」という定義に則るとしよう。
「問題をシンプルにしていく」ということを、僕なりにより掘り下げて表現すると、「問題の構造(どのようにその問題が発生するかの仕組み)を明確にしていくこと」である。
例えば、「仕事が終わった後に、スマホを片手にソファーでついついダラダラしてしまう」という問題があり、そのダラダラを無駄なものとしてとらえ、その無駄を失くしたいと考えるとする。
「仕事が終わった後に、スマホを片手にソファーでついついダラダラしてしまう」は、具体的に何をしているのか掘り下げると、以下を実施していることがわかった。
・仕事が終わって、缶ビールを飲んでからソファーでスマホを見るという流れとなる
・スマホでは、たいていインスタグラムとFacebookを見ている
・何か目的をもっているわけでなく、目に入ったものを流して読んでいる
そこで、なぜ上記のようなことになってしまうのか(どこに問題があるのか)を考えてみる。僕は以下のような仮説をたてた。
①仕事のストレス起因:仕事で頭を酷使してしまい、無意識に何かをダラダラ読むという時間を確保しようとしてしまう
②ビールによる酔い起因:ビールの酔いにより、活動的でなくなりダラダラしてしまう
③インスタグラムとFacebookのコンテンツ起因:インスタとFacebookのコンテンツが面白くてついつい読んでしまう
この仮説を検証する。
③は無いな。なぜなら、InstaとFacebookを読み終わったら、何かと別のWebに飛んでしまうので、上記のコンテンツが面白いから読んでいる訳でないのがわかる。
②が原因だろうか? これは有り得そうだ。以前、頑張って仕事終わりでなく、仕事が終わった後にご飯やお風呂、洗い物等をすべて済ませた後にビールを飲むようにしたら、ダラダラする時間が減った。酔ってぼーっとしてとりあえずスマホを見てしまうということなのかしら。
①もおそらく違うだろう。なぜならば、頭を酷使した日でも、それほど忙しくなかった日でも、このダラダラが起きる可能性については差が無いからだ。仕事の忙しさ関係なく、基本毎日ダラダラしてしまっている。
上記により、ダラダラはアルコールの摂取による酔いが起因であることが高い、と問題の構造・仕組みが解明できた。ここまで来たら問題はほとんど解決できたようなものだ。アルコールの摂取を無くす、もしくは、食事やフロを終わらせて寝る前にする等がソリューションである。
このように、「ダラダラ」という、なんとなくとらえどころの無い問題の仕組みが構造化され、ソリューションの提示ができた。このように、基本的に「考える」ということは、何か問題や壁がある場合に、それを解決する、乗り越えるための行為であることがわかる。
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次の問いだが、「考える」ことは必要なのか?
僕の答えは、基本的に「YES」だ。なぜなら、「考える」ことにより提示することができる「ソリューション」は、人の役に立ち、それこそが価値となり得るものだからだ。
堀江さんが言う通り、仕事とは「人の役立つこと」そのものであって、何か資料を作ったり、手足を動かすことそのもので無い。いくら作業をしていたとしても、それが誰かの役にたたないと意味が無い。
そして、役に立つためには、やはり人より考えないといけない。顧客が会社に問い合わせるのは、その顧客のみだけだと構造化しソリューショニングできない問題があるからこそなのだ。その状況で問い合わせを受けた僕らが問題解決できないならば、僕らが存在する意味が無くなってしまう。。
そしておそらく、この経済活動における問題は、年々その複雑さを増していくのだろうと思う。
一つ加えておくと、別に問題解決自体が素晴らしいものと言っているわけではない。例えば、嫁が文句や愚痴を言うときは、「大変だったね」という共感を求めているのであって、「じゃあこうすれば良いのでは?」という問題解決は求められていない。生きている場面、シーンにより、問題解決が価値を発揮する箇所を見分けることは必要だ。
しかし、少なくともビジネスシーンだと、問題解決の価値が増えることはあっても、減少することは無いだろう。僕らは問題解決のために、相手の意図を汲み取るコミュニケーションをしないといけないし、相手が知らないことを知っていないといけない。何より頭を使って考え抜かないといけない。。。
僕らが生きているこの資本主義経済というものは、なんとも儚く理不尽なものだ。
勉強しないと人より抜き出ることができないし、勉強をしたとしても、いずれAIに淘汰されるかもしれないからだ。
こんな偉そうなことを言っていたとしても、いずれ僕もロボットに問題解決力を抜かれるときが来るかもしれない。そのときは、諦めてプロの遊び人にでもなろうと思う。無駄なことをして遊ぶことは人間にしかできないのだから。だが、それまでは、やはり問いと仮説は持ち続け、考え抜いていこうと思う。