Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

映画のエンドロール時の様子から考える日本人について。

昨日は、通っている音楽教室の、ギター・ウクレレ部の発表会がありました。

僕は4月からJAZZギターを習っていて、先生からせっかくだから出てみない?と言われて、まぁせっかくだから出ようかな、と出てみた。

ただ想像の通り、音楽教室の発表会ってやっぱり小学生ばっかなんですよねー。

児童がお母さん、お父さんと一緒に会場に来ていて、子どもたちはアコギやクラシックギターで、「君を乗せて」や「Stand By Me」とか、まぁ発表会でやりそうな曲を一生懸命先生とやるんですよね。小学20年生の僕は、なんだか父親にでもなった気分で、「失敗しても大丈夫だから全力を出してね!!!」と、子どもたちが一生懸命演奏するのと固唾を飲んで見守っていたわけですが、小学生の子どもたちからするとあんた誰だおっさんみたいな感じだったと思います。

そして会の進行の方から「八幡さ~ん、そろそろサウンドチェックお願いします~」と言われて、「はい!!!!」と意気揚々に演台に上がる僕に対し、「お前出演者だったんかい!!!」と言わんばかりの周りの保護者からの冷ややかな視線に耐えつつ、一応練習通りのクオリティで先生とのデュオをしてきました。

Skating in Centralparkという曲を、Jazz界では知らぬ人のいないBill EvansJim Hallがリハモ(再編)した曲です。3拍子のリズムが、本当に男女のペアがセントラルパークでスケートしている情景が浮かぶような、この季節ピッタリの曲ですね。

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私の演奏時の写真はこんな感じ。あろうことかけっこう禿げてきてない?頭にインダス川の渓流流れてきてない?というのをこの場で認識するとは思ってなかったですが。

 

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・・・

まぁ本題なのですけど、この演奏会の後、演奏を観に来てくれた嫁と母親と、「ターミネーター・ニューフェイト」を見に行ったんですよね。

実は、すでに嫁と観に行ってはいたのですが、母親が観たいと言ったので2回目。ただ、評判よりは僕的にはけっこう面白くて、2回目もしっかり楽しんできました。僕的に一番おもしろいのは、サラ・コナーが口悪すぎるところなんですよね。マザー◯◯ッカーとか何回言ってるんだお前は、と繰り返し荒々しく言っているのですが、まぁサラの境遇を考えるのに仕方ないことかも知れないですね。ターミネーターお約束のI'll be backもサラが登場いきなり言うんですが、ターミネータ1の幼気なサラ・コナーはWon't be backっすね。

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んで、話したいのはエンドロール(映画本編が終わって、音楽とともに出演者や関係者が字幕で流れてくる場面)についてなんけど。。

僕が大学生のとき、カリフォルニアに留学しているときに、『風立ちぬ』を現地の映画館に観に行ったんですよね。日本で公開されたちょっと後に米国でも公開されて、そのときちょうど留学の期間だったのですよ。

僕は宮崎駿アニメのファン(特にもののけ千と千尋が好きっす)なので、早稲田から同じ大学に留学していた人たちと観に行ったのですが、そのとき、あまり人生で経験していないことを経験して。

何かと言うと、先程話したエンドロールの瞬間に、観ていたアメリカ人が総出で立ち上がって退館したんですよね。「え~!?早いし速い!!、荒井由実ひこうき雲聴いてから出ればいいじゃん!!」みたいな。

日本の方って、私の経験から推定すると90%くらいの人がエンドロール全部観るんですよね。んで、エンドロールが終わって明かりが点灯したところでやっと立ち上がる。これ読んでいる人もほとんどがそうじゃないかなー、と。僕も風立ちぬ観るまでそうだったですよ。「俺立ちぬ。エンドロールが終わるまでは」みたいな。

ただそれ移行、エンドロール中の音楽を特別に聴きたいとき以外は、あのときの米国人ばりにエンドロールが始まった瞬間退席するようになりました。なぜかと言うと、「エンドロールをすべて観るのは時間の無駄だ」と考えるようになったからです。

よくよく考えると、時間の無駄じゃないですか?まぁ完全に僕も同じだったので偉そうなことは言えないのですが、エンドロールを見て自分の価値になるようなことって殆どないのではないでしょうか。

たぶん、風立ちぬの後即席を立つ米国人は、風立ちぬの内容を楽しむために映画館に行っているのであって、自分の時間を、映画の始めっから最後の最後まで拘束することを約束したわけではないんですよね。単純に映画の内容が終わりゴールを満たせたからエンドロールで席を立つんだと思うのです。

ただ、私も日本人ですし、実際に20歳まではずーっとエンドロールが終わるのを見届けていたわけであって、エンドロール中に席を立たない気持ちは共有できるのですよね。なんとなくみんな座っているし、暗い中で立ち歩くと迷惑かかりそうだし、人の視線を遮ることになるし、ひょっとしてエンドロール後におまけ動画が紛れているかも!?みたいな。

ここで対比として面白いのは、やはり「ゴールドリブン」の米国人、「協調ドリブン」の日本人なのです。もちろん、上記現象をこのように完結に抽象化していいものかわからないのですが、少なくともお互いの国民性の一つの側面は捉えているのかな、と。

やっぱり、欧米人は「ゴール」を意識している人が日本人よりははるかに多いです。自分が取り組むこと、時間を遣うことに関して何を得たいのか。何をアウトプットすることにより取り組みが終結するのか。と。

一方、日本人ももちろんゴールドリブンな人はいますが、なんとなく要件が良くわからない人が、欧米人での割合に比べると、やっぱり多いと思うんですよね。自分がこの取組みで得たいことは何なのか。何がゴールなのか、を考え抜かないまま惰性で動いてしまうという。

ゴールがわからないと、そのゴールに向かうのと関係ないことに阻まれるような「時間汚染」もやっぱり増えるかと。エンドロールの時間は、僕にとって時間汚染なんですよね。。。自分の人生と目的に関係がほとんど無いから。。。

このような文化的・人格的側面に「良い・悪い」は無いんですけど、お金と労働力、インフラという「資本」をインプットして、市場に「価値」を提供するというゴールを共有する会社や資本主義の枠組みの中では、やっぱりゴールドリブンの人に比べると、協調ドリブンの人は、してやられているイメージがあります。最近米国や中国の方とコミュニケーションを取る機会がありますが、やっぱりそう思います。


そろそろ長くなりましたし、TOEICの会場に向かわないといけないので結びますが。

確かに、自分の経験を考えても、高校(校則がほとんどなく考え方がめちゃくちゃリベラルな大学附属校)に入るまでは、「自分の頭で考えること」を許されない学習環境だったと思います。とくに公立の中学はひどかった。。。

まぁ、今回のトピックを日本の公教育まで結びつけるのはめっちゃ強引だと思うのですが、エンドロール中にぽかんと席に立たない人たち(もちろんその中には理由があって席を立たない人もいると思いますが)を横目に、自分の頭で自分のゴールや手段を考えることを良しとする環境をもう少し広げたいな、と感じました。また、自分の頭で考えた良し悪しについて、忖度せず意見表明できる空気を、組織の構成メンバーが作る努力も必要なんだろうな、感じたのであります。