Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

「親友」という言葉の持つ意味

昨日、ある友達と飲んだ。

UCBerkeleyで友達になった、東大出身で今は外資投資銀行のトレーダーとして、うん千万と稼いでいる男である。(そして例に漏れず不動産投資に勤しみ、早期リタイアメントのための戦略を着々と進めているのであった)

何回かブログで書いている気がするが、彼はまさに「天才」で、まぁ彼と話すと色々面白いものだ。金融マーケットから見る世界経済の中の日本の経済の今の話であったり、不動産投資の話であったり、最終的にはいつも「生きる意味」ってなんだろうね。ぶっちゃけ無いよね。ていうオチになってしまう。(そこはなんだか青臭い)

学生のときは、ある問いに関するディスカッションになれば、彼のその頭の回転の良さから途切れる事無くでてくるロジックのオンパレードに舌を巻いたものの、魅力的でもあり、かなり大きな影響を受けた男でもある。

また、一緒にバンドを組み、曲がりなりにもJazzらしきものを一緒に演奏し、一緒に語り合い、ずっと一緒に音楽をやることを夢見た相手でもある。(ちなみに、彼は絶対音感を持ち、聞いたものをその場で弾けるという才能の持ち主だ)

そんな男と昨日飲んだ。

学生のとき、彼と話していた感覚とはまた違う。

「すげーな、めっちゃ金稼いでいていいな」、という気持ちはあるが、その彼に対し僕はいまさら羨望の眼差しは向けないし、僕も今や結婚して世帯を持つ身。なんとなくの考え方や哲学というものは持っていて、そこからブレることも特に無い。

が、しかし。僕は昨日ある言葉にかなり揺さぶられた。

「親友」という言葉にである。

昨夜、神田で飲んだ後、すぐ近くにある彼の家に遊びに行ったのだが、彼の彼女もいたので、彼からお互いを紹介してもらうとき、僕のことを「親友の」という枕詞をおいてくれたのである。

僕は、そのときはなんかちょっと恥ずかしいな。て思ったものの、今朝振り返ってみると、なんだか不思議な感覚に陥った。

八幡は周りからどう見られているか正直わからないのだが、僕は本来はかなり自分本位な男で、とにかく周りに合わせるを嫌う。自分の時間が何よりも一番大切で、反りの合わない人と無理に合わせて付き合うくらいなら、自分から背を向けてしまう。

中学はそんなことなかったけど、高校は男子校で3年間同じクラスだったが、本当に心を許せる友達はおらず(幸い他のクラスにはいたのだが)、大学ではサークルに入るも馴染めず2週間で辞めてしまう。ゼミも辞めてしまう。ただ一人ずっと英語や政治経済の勉強をして、米国に留学することを志していたのだ。

そんな僕に、「親友」と呼んでくれる人がいるのは、「まじか」とちょっと驚きをかくせなかった。

と同時に、ありがたいな。今まで自分なりに一生懸命生きてきてよかったな。と思った。

そして、僕はある決断をした。

米国にいたときの彼との約束を果たすときがきた。

僕は、ギター教室に通い、いつか彼と一緒に演奏をするため、Jazzギターを習うことを決めたのだ。

留学終わった後に、なんとなく演奏する機会が無く、就活等の忙しさにかまけ、全く演奏を辞めてしまっていたのだが。

会社に入っても、営業として結果を出しても、ずっっっっと心にひっかかる何かがあった。それは、ずっとJazzを演奏し続けて、上手になって、いつかバーやクラブで一緒に演奏しよう、というあのときの彼との夢が置き去りにされていることだった。(彼自身は、バンカーをやりながら着実にJazzピアノを鍛錬していき、今や本当にすごい腕前である)

その夢は、僕は一度あきらめた。

だが、昨日の彼のあの言葉、そして彼が昨日弾いてくれた「Someday my prince will come」は、僕があの夢をまた強烈に抱く結果になるのに十分なほど巧すぎた。

といことで、今日は仕事が終わったら、麻布のヤマノミュージックサロンに行って、入会をしてこようかと思う。


運命を信じるだろうか?

 

僕は信じる。