Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

人が生きることにおいて明確な「正しさ」も「間違い」もないのではという話

もう4年も前の話である。

僕はカリフォルニアのサンフランシスコからほど近い大学に留学をしていた。

留学をしたかった理由は特にない。ただ、なんとなくしたいと思ったし、高校生の時観ていた『ハイスクールミュージカル』の主人公のトロイが、「僕はUCバークレーに行く」って言ってて、なんとくどんな大学なのかと調べていたら、とってもきれいなキャンパスだし、なんと僕の祖父が尊敬している孫正義がいた大学ではないか!! これは、しめしめ、うまくすべりこんだら、留学させてもらえるかもぞ、、、って感じで、本当に大した理由もなく留学先を選んだ。

そんな超適当な理由で選んだ留学先であったが、その学校に集まる学生、特に現地生でなく、海外から選抜されて集まった学生は超優秀であった。

「超優秀」というのは、ただの誇張表現でなくて、本当に「超」優秀なのである。
超優秀な人っていうのは、なんとなく公立の小中学校で頭が良いって言われて、なんとなく都内、県内で有数の進学校に行って、大学は有名私立、、、って感じのいわゆる「優秀」な人とは正直レベルが違っていて、なんだろう。。。宇宙のダークマターの存在ついてロジカルに証明する人もいれば、留学中にプログラミングをはじめて、そのまま米国のGoogleに入ってしまう人もいれば、ボスキャリで投資銀行の内定をもらって、数ヶ月後にはインターンですでに独立行政法人の金回りのアドバイザーしているというような、本当に狂気じみた天才が多かった。

僕は、単純にそんなやつらを「すげー」って思っていたし、そんなすごい奴らの中で一緒に勉強できたり(全然しなかったけどw)、寝泊まりを同じ寮でできるなんて素晴らしい経験だと思った。

僕も、そんな天才になりたかったし、なろうとして努力もしたし、なったフリもしてた。でも、なんか違うと思った。

上記のような超優秀な人は、確かに超優秀なのだが、それだけ人と異なっているということだ。この世界では、特に日本においては、「異なった人」への風当たりは強いものだし、自分自身が優秀すぎると、一周回って何も人生がおもしろくなく、本気で自殺したくなるというやつも、本当に馬鹿らしく聞こえるのだけど、いるのだと知った。

留学先で特に仲の良かったある日本人の友達は、8歳のとき、あるとき不意に、人がみな死から逃れないであろう運命を悟り、その後数ヶ月ろくに睡眠も取れず、ずーーーっと死のことについて考え、夜な夜な涙をしていたんだそう。8歳のとき、僕なんか鼻水たらして、泣きべそかいて「まま~!!!!!(T_T) りょうた君にわかくさ公園でいじめられた~(T_T)(T_T)。だから怒ってきて!!!」みたいな超アホなことばかり母に頼んでたのに。

僕たちから見ると、頭がよくて優秀で、その分お金持ちだったり、みなからチヤホヤされている人に限って、僕らが想像できないような人間の暗い部分持っていたり、本気で死ぬ気で悩んでいたりする。

頭が良い=正しいとか、勉強ができない=「間違い」みたいな短絡的な判断や解釈なんて本当に意味がないし、人生は偏差値では測れないんだと感じた。人はその人たらしめることを理由に褒められもすれば蔑まれる。それは、「良く」見える人、「悪く」見える人関係なく誰にでも言える。

優秀であることを理由に褒められもすれば、優秀であることを理由にいじめられたりもする。前も話した話だが、何事も良い悪いの両面があって、一概になんでも「良い」と片付けられないのが、僕たち人間の複雑さである。

祖父と両親に留学させてもらったのに、正直勉強はあまりせず、サンフランシスコでサイクリングばっかりしていたのだが、このようなことを体感できたのは、何事にも変えられぬ経験だったかと思う。

しいて僕が思う人間としての「正しさ」は、ある自分の性質により、うまくいかないこと、人から蔑まれることから逃げず、自分という刀身を磨き続けることなのかなぁって思う。

皆様、今週もお疲れ様です。\(^o^)/