Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

時には自分を殺しかねない「真面目さ」について

女優の竹内結子さんが亡くなったと聞いた。自殺のようだとも。

そして、数ヶ月前には、俳優の三浦春馬さんも同じく自殺で亡くなった。

僕はテレビもドラマもほとんど観ないので、正直竹内結子さんや三浦春馬さんの出ているドラマのことや演技のことは正直分からない。一方、日本で活躍していたまだまだ若い方が自分で命を絶ったという事実だけでとても悲しい。

 

自ら命を絶つことについて、僕は自分自身は考えたことが無いので、お二人がその瞬間、どんな気分で、どんなことを考えたのか想像すらつかない。想像すらつかない僕はきっと幸せだと思う。

ただ、これは推測でも何でもなく、ただの妄想なのだが、お二人はきっと「真面目」だったんだろうな、と思う。逆に「不真面目」な人が自殺をするなんて、全く想像もつかないのだ。

知ったようなことを言っているが、もちろん僕はお二人のことを知っているわけでもないし、幸いにも自ら命を絶った知り合いがいるわけでもない。あくまで勝手な僕の妄想だ。

・・・

 

「真面目」と言ったが、そもそもこの言葉はかなり抽象度が高い言葉だ。少しググってみた

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ググって一番上に出てきたのが上記だが、それは僕の考える「真面目」に近い。
本気であり、まっすぐであり、誠実である。嘘ではないことだ。

これは、一見良いことに思えるし、実際そうだと思う。真面目の逆、つまり不真面目を上記から定義すると、「本気でもなく、嘘や冗談にまみれており、不誠実」ということとなる。不誠実な人と誰が付き合いたいと思うだろうか。

一方、「真面目さ」というのは諸刃の剣で、時に人の命を脅かしうると僕は考えている。

真面目であれば真面目であるほど、自分にかかる重圧がのしかかってくるのだ。
誰に対しても本気で接し、誰に対しても真心を込める。それは素晴らしいことだが、「真面目」の対象が多ければ多いほど、身体的かつ内面的の疲れも多くなることだろう。

そして、何よりも一番危ういのは、「自分自身に向けた」真面目さである。
「自分はこうありたい」 「素直で、真摯でいたい」 「自分自身はできるはずだ。だから努力するべきだ」

 

こういった感情を持つ人は、おそらくたくさんいる。一方、僕もそうなのだけど、ある程度で、「ま、疲れたから今日はいいかな」という甘えというか、自分への不誠実さ、というものを持ち合わせる人がほとんどだと思うのだ。

ただ、僕も出会ったことがないのだけど、一握りの人は自分の不誠実さを認めず、自分へひたすらに、ひたむきに「真面目」であり続けることができるのだと思う。そして、そのような人が世の中で大成するのである。

経営者でも芸能人でも、その分野で1%以下のトップ層に君臨する人は、常人では想像もつかないほどの「真面目さ」を持って、日々鍛錬をされていると思うのだ。ただの才能、容姿、持って生まれたものだけで、成功を継続させるのは、難しいはず。世の中はきっと因果応報である。

竹内さんも三浦さんも、芸能界ではぶっちぎりの上位1%以下の層に君臨されていた方で、お二人がされていた努力やストイックさは想像を絶するものではないか、と勝手に想像している。ただ、その自分自身への真面目さにより、自分自身が思い描く理想に添えなかったとき、少しでも自分で「道を踏み外してしまった」と認識したときの落差は、同じだけ凄まじいものではないか、と勝手にまた想像してしまう。

じゃあ人は不真面目くらいが良いのか、と言われるとそれも違う気がする。
稲盛和夫さんが言う通り、人間は「すこしでも自分自身や世の中を良くしたい」という自然の意思が働き、それが集まって、世の中が少しでも良い方向になっていくモーメンタムが生まれる、ということを、僕も本気で信じている。

ただ、時に、「自分が理想とする自分、世界、他人には決してなれない」ということを認識するだけで、救われるような気がする。

要は、すごく情けない自分を、かっこ悪い自分自身を受け入れる、ということだ。

それはある意味、あきらめにも、逃げにも近いかもしれない。ただ、命を落とすくらいなら、そんなカッコ悪い自分や周りを愛して、受け入れたほうが、きっとその先にいいことが待っていると思うのだ。