Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

「to do(コト)」よりも「being(状態)」にもう少し重きを置いてもいいのではという話

ある本を読んでたら、こんな話が出てきた

世の中は二種類の人間に分かれる。to do(コト)に重きを置く人間と、being(状態)に重きを置く人間である。

前者のto doさんは、何をするのか、どんなことを成し遂げるのかということを考え行動し成果を上げていく人間

後者のbeingさんは、成し遂げるものごとよりも、どんな人間でありたいか、どんな状態でありたいかを重視する人間


このような説明がされている。

あなたも、自分がどちらの人間に分類されるか考えてほしい。

おそらく、9割以上の人間は、後者のbeing人間に分類されるだろう。僕が読んでいた本だと、99%がこのbeingに属すると述べられている。圧倒的大多数は、「何を成し遂げたいか」という明確な夢や目標に向かって行動はしないというとだ。

かく言う僕も完全にbeingさんだ。僕に明確な夢や目標はない。それを持つきっかけも自意識もない。これから何か大きなことを成し遂げる気配も目論見もない。

ただ、このように書くと、どうしてもto doさんの方が優秀で、beingさんは、to doさんに比べたら大したことないというような、劣等感に駆られるのはなぜだろうか。

それはどうしても、僕たちの頭の中には、いわゆる「成功者」であるto doさんが自伝に遺した名言(例えば、孫正義氏の「志高く」は最たるものではないだろうか)や、世の中でto doさんをもてはやす風潮があるからだと思う。

確かに、世の中の歪みを見つけ出し、問題意識を持ち何かを成し遂げ行く人の姿というものはかっこいいし、賞賛に値するだろう。わかりやすい例で言うと、孫正義氏やゾゾの前澤氏、最近の例で言うと、幼いころに両親をなくし、少年時代から路上弾き語りでお金を稼ぎ、石原さとみさんとの交際も報じられたShowroom前田裕二氏など、ちょっとFacebookのタイムラインを見れば、to do人間の活躍を称賛する記事が流れ、同世代の人たちも、社会活動やらボランティアやら勉強会やら起業やら、本当に色々とtodoっている。

僕は、決してto do人間を皮肉っているわけではないし、本当にすごい人もいっぱいいると思っている。僕がここで言いたいのは、to doだけでなく、もう少し自分のbeingをそれぞれが誇ってもいいと思うし、その方が皆幸せなのではないか?ということである。

to doは、どうしても個人差が生まれてしまう。個人の才能や生まれた時の境遇等、どうしても努力では埋めることができないものがto doでは顕になってしまう。

同世代や大学の知り合いが、自分よりもはるかにすごいto doをしていることをFacebookのタイムラインで見て、僕たちはものすごく焦る。なぜなら、僕たちはto doで評価されることが頭にあり、to do力でその人に劣る=あまり評価されないということを感じているからだと思う。

でも、正直その焦りは意味がないと考えている。さきほど言った個人差は仕方ないものだし、生まれたときから幸せで、世の中に問題意識の持てないようなやつに、「常に問を持ち続けろ」と言っても、正直しんどいと思う。

より重要なのは、個人が「どんな状態で生きていたいか」を考えることではないだろうか?

例えば、「お金持ちになる」でももちろんいいし、「お嫁さんになる」「パパになる」「ママになる」でももちろんいい。

もっと現実的な線で言うと、「決して人に嘘をつかない」であったり、「営業として、お客様には筋を通す」とか、「目の前の仕事に全力を尽くし、常に少しずつ上司の期待値を超える」、「どんなに社内調整が大変でも、顧客目線を一番大事にすることは決して忘れない」とかもあるかもしれない。

こういう、「自分がどういう状態でありたいか」は、他人と比べられない。なぜなら、人の価値観は人それぞれであり、価値観に良いも悪いも何もないからである。

そして人と比べられないと、僕たちは僕自身に目を向け始め、自分の良さも悪さも誇れるようになるのではないか。簡単な話、幸せになるのではないか。

綺麗ごとのように聞こえるが、十人十色でみんないい、特別なオンリーワンでいい。僕たちが考える「こういう人間でありたい」に評価するものはいない、そういうことに重きを置いてみたらいいのではないだろうか??

そして、才を持ち生まれたものは、「事を成す」ことで人生を彩ればいい。それももちろんオンリーワンの一つの道だから。

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※余談だが、SMAPの独立した3人も「どういう状態でありたか」を考え抜いた結果の独立だったのかもしれないとふと考えた。