Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

意思のあるところに道は開ける

少し昔の話である。

大学2年生のとき、僕が19歳だったときの8月ごろ、留学に向けた学内選考があった。

今はどうかわからないが、早稲田は日本有数で留学の輩出と受入を実施している大学だ。国際教養学部という、所属している学生全員が海外からくる外国人、もしくは海外に留学する日本人という学部があるくらいだった。

早稲田の留学システムは、国際教養学部だけでなく、僕が所属していた商学部ももちろん、他の学部も含めて、一斉に同じ基準にて留学希望学生に対し、早稲田提携している留学受入先を選定させるシステムが存在した。簡単に言えば、留学先について第5希望くらいを提出し、成績やTOEFL、面接等の結果をもとに、成績が良い学生から、頭から順に留学先をアサインしていくシステムである。

もちろん、各留学先で受入上限人数があるし、TOEFLスコアやGPA(Grade Point Average:学部での成績を数値で表したもの)での足切り基準も存在するので、皆が皆行きたい大学に行けるとは限らない。大学入試と同じだ。

僕が志したのはカリフォルニア大学バークレー校という、米国内でもかなり名門な州立大学だった。バークレーも含め、コロンビア大学プリンストン等のアイビーリーグケンブリッジやオクスフォード等の欧州の名門大学、また北京大学シンガポール国立大学等のアジアでのトップ大学等には、通常のTOEFLとGPAによる選考だけでなく、日本語と英語によるエッセイ試験、また英語での面接を突破しないといけない仕組みだった。

まず、TOEFLが鬼門だ。上記のような名門校はたいてい95~105は求められる(120点満点中。日本人は、受験者の平均が60程度)。このスコアは、帰国子女の中でも、知的(英語がしゃべれるだけでなく、頭も早稲田の平均くらい良いことを意味している)な人でないと取れないレベルだ。帰国子女でない普通の日本人がこのスコアを取るには、それ相応の手段が必要だ。

上記で「それ相応の手段」と言ったことを実施し、金も時間も青春も掛けてTOEFLで基準値を越え、またGPAも結構良かったので、僕はバークレーへの受検資格を得た。

そこからは正直、あっという間の選考ステップだったので、あまり覚えていない。。。

ただ、エッセイと面接で聞かれたことはざっくり覚えている。日本人の外交と世界情勢に関するスタンスや存在感に関してと、環境問題に関する意見を求められたのだった。(たぶん)

おそらく、今聞かれると日本語でも答えるのが億劫になるくらいのトピックだ。日本の外交に関してどう思う?って聞かれて、普通のビジネスパーソンはすぐ答えられるだろうか?多分無理だと思う。なぜかと言うと、そのトピックに関して何も考えていないからだ。(僕もぶっちゃけそうだ)

では、留学選考時のときの僕はどうだったかと言うと、自分でも驚くことにスラスラ答えられたのである。エッセイでも面接でも。なぜかと言うと、単純な話で、めちゃくちゃそのトピックについて考えていて、意見も持っていたから。僕は、シンプルに意識がめちゃくちゃ高い大学生だったのである。

ただ、社会人4年目の今僕の目線で当時の僕のことを評価すると、「こいつ何も考えられてねーな」の一言で終わっちゃうと思う。だいたい、意識が高くて何かに対してどうにかしたいと強く考えていても、取り組む課題のWhat(スコープ)を明確にして、そのWhatに対してのHow(課題解決の手段)も考え抜けてないのに、そもそもどう行動するか分かるわけがない、と言い放って終わりだろう。

ただ、もうエッセイでも面接でもどんなことを語ったか全く覚えていないのだが、当時の留学選考の中で、僕はバークレー校への留学を勝ち取ったのだ。おそらくエッセイや面接での内容が評価されたのだろう。どんな課題に取組みたいかも考え抜けていない、ただの意識が高いだけの僕に対して、なぜ早稲田大学はチャンスをくれたのだろうか。。

それは、やはり「意識の高さ」が理由だったのだと思う。
なぜ意識が高いことが重要かと言うと、高い志こそが、行動へ結びつくキーとなるからではないか。




年末年始になると、僕は実家に帰っていろんな銭湯へ行く。
いろんな銭湯でサウナと水風呂の繰り返しをしてぼ~っとしつつ、色々考えごとをしたり。

昨日は、8個離れている兄貴と二人で地元のスーパー銭湯にいったのだが、サウナのTVで、環境問題に対する取組みを行っている、十代二十代の若者の特集がされていて。

今年、スウェーデンの16歳の少女であるグレタさんが、環境問題に対して各国へ取り組むことを熱くスピーチで呼びかけたことも記憶に新しいが、色々な国の若者が、色々な視点から環境問題を捉え、改善のための行動をしていることを、ぼ~としながらTVで観ていて。

今の僕は、環境問題を含む国際的な問題に対する関心はすっかり失ってしまったが、留学選考時の僕は、似たようなこと考えていたのかもな(行動はあまりできなかったけど)、と当時のことを思い出していた。

改めて感じるけど、意識だけだと何も生まれなくて。
例えば、当時の僕よりも、今の僕の方がおそらくエグゼキューション力は高いだろう。ある程度真面目に仕事に取り組んできたので、思考力も表現力も、学生のときの僕とは比べ物にならないとは思う。

今の僕も決して意識が低いとは思わないが、僕が実現したいことのレイヤーは、今より学生時代の方が遥かに高かった。社会人の僕は、良く言うと地に足がついている考え方、悪く言うと面白くもなく、利己的な考え方である。

この先、どのように生きたいかを考えたとき、僕は今のままで良いのかと正直疑う。せっかく、五体満足でこれ以上にないほど愛情と機会に恵まれた環境で育ってきたのに、その幸運を自分の中だけに留めていいものだろうか。

もちろん、まずは自分と自分のすぐ近くにいる人を幸せにする、というところからスタートすべきなのだけど、ゴールを考えた時にその視座が高ければ高いほど、きっと実行力も、良い意味での影響力も結果的には強まるのはないか。

意識と志だけでは何もできないけど、意識と志がないとそもそも何かをしよう、という行動の種が生まれないのでは無いか。何かを行動するきっかけとなりうる意思は、それだけで尊重されるべきものなのではないか。

 

そんなことを考えた。
留学選考時は、まだ研ぎ澄まされていない、全くの素のままである志が、それなりに評価されたのかもしれない。

その選考を経て渡ったカリフォルニアだったが、正直勉強をあまりせず、投資対効果としては今の所良いとは決して言えないだろう。お金を援助してくれた祖父にも顔向けできない、、

 

ただ、年始のふとしたきっかけで当時のことを思い出し、今こんなことを書いているが、何かに対して「遅すぎる」ということは無いかもしれない。

2020年以降、20歳のときのような感情も大切にし、意識を高く持ちつつ、社会人で培い、今後も磨いていくエグゼキューション力を手段に、色々なことに挑戦したい。

WhatもHowも、WHYがあるこそ存在価値があるもので、そのWHYは、意識や志の高さゆえに見つかるということだと思う。