良い人すぎて合うのが憂鬱というケースがある
今、感情が向かうままに久々の投稿をしている。。。
ついさっきまで、僕はある友人と過ごしていた。ベトナム人の女性で、僕が19歳のときに、ある日本企業が主催した国際プログラムで知り合った人である。
彼女はその時初めて日本に来たらしいのだが、ずいぶんと日本を気に入ってくれて、かつ僕を友人としても受け入れてくれて、なんと日本(しかも僕がいた大学)にも留学してくたような人だ。
その彼女が、日本でのMasterを終え、ベトナムに戻ると言う。
その前に久しぶりに会おうということになったので、高田馬場でランチとお茶をしていたのだ。
僕は彼女と知り合ってから、けっこう仲良くしていて、いっぱいテキストメッセージもしたし、彼女が留学する前に日本に旅行にしに来たときも良く合ったりしていた。結構仲が良かったと思う。
彼女が日本に留学しに来るときも、成田空港から暮らす寮に荷物を運ぶのを手伝ったり等もした記憶がある。だが、あるときを境に、あまりコンタクトも、合うこともなくなってしまった。
なぜかと言うと、合うのが単純に嫌になったからだ。なぜ嫌になったかと言うと、あるときを境に、彼女の人格が良すぎることを知り、彼女に会うたびに、自分の人格の駄目さを目の当たりにするのが嫌になってしまったのだ。
また彼女は非常に頭が良く、優秀な人でもあるので、自分の至らなさ(英語の上手さの差も含め)洗いざらいになってしまうような気がして、避けてきたのだ。僕は、自分のプライドを保つために「会わない」というような選択をしてきたのだと思う。
距離を置いてから少し時間がたって、その彼女がベトナムに帰るとのことで、約1年半ぶりくらいに会ってきた。彼女は相変わらず良い人すぎて、やっぱり自分が嫌だな、と思うことになった。
ついさっきに別れて、その感情をどうにか表現しようとして今ブログを書いている。
なぜ、人間はこうも自分を保存したがるのだろうか。
彼女は良い人で頭も良いが、決して威圧しているわけでもないし、ひけらかしているわけでもない。純度100%で良い人だが、僕が過剰反応しているだけなのだ。
どうして、純度100%の人の良さを、純度100%のまま受け入れることができないのだろう。僕は。なんでその純度100%の人の良さに、「自分のプライド」という変なスパイスを加えてしまうのだろうか。
僕は社会人になって4年目で、ある程度大人になったつもりだけど、ちっとも成長していない。結局は「自己保存」が一番重要な一人の人間なのである。
彼女は1mmも悪くない。悪いのは彼女の良さをそのまま受け入れられない僕だ。
お願いだから、少しでも良いから、「あなたのこういうところ良いけど、こういうちょっと気になるところもあるんだよね」と言わせてくれ。お願いだから、僕をこんな惨めな気持ちにさせないでくれ。僕の中の嫌な僕がこう叫んでる。
彼女はベトナムに帰っても、頻繁にまた日本に来たいと言う。
きっとその時は、僕に会おうと連絡をしてくれることだろう。
それに対して僕は、「もちろん」と返すことだろう。
その時の気持ちが、いずれ100%歓迎する気持ちで満たされることを願いながら、僕は今東西線の木場駅を過ぎたところだ。
「自己保存を超越した自己に、私はなりたい。」
と自分をより高望みしている時点で、それがまた自己保存を孕んでいることも気づかずに。。。