人は、自分に期待せずに生きれるものなのか。
仕事から帰ると、いつも20分くらいダラダラとFacebookのタイムラインを眺めている。
気になる記事が目につくと読んだりするのだが、たいていは時間の無駄だ。そんな中で、最近とても印象が残る記事があった。
「仕事ができる人は、人に期待しない」
簡単に記事で言われていることをまとめると、
- 仕事ができる聡明な人は、他人にも自分にも期待しない
- なぜなら、期待を持てば持つほど、期待通りにならなかったときに苛立ちや恨み等の負の感情を持ってしまうから
- なので、上司部下や会社、自分の子供も含め他人に良い意味で期待せず、「やってみて、できなかったら仕方ない」というスタンスで接すると、お互いストレス無くハッピーにすごせる
- また、自分への期待も傲慢に繋がってしまうので、自分の至らなさを知り、他人の力を借りようとするべき
という感じだ。
僕は就職する前、塾の先生をしていたので、上記のような感覚が大切なのは、身を持って体験している。生徒と自分を同一化してしまい、期待してしまうと、その期待が裏切られたときは僕自身が辛いだけでなく、「自分が裏切ってしまった」という、本来無くても良い感情を生徒に持たせてしまう。お互いの破滅に繋がってしまう。
仕事でも全く同じで、後輩に「君はできるはずだ」と期待すればするほど、期待になかなかそぐわないとイライラしてしまうし、それが相手に伝わると、やはり嫌な雰囲気になるものだ。
感覚として分かるのだけど、頭で理解するのと実践できるのは全くの別物で、難しい。人は感情的な生き物なので、人に期待してしまうのも仕方無い。だからこそ、自身の感情をコントロールして、他人に「期待しない」というのができるのは、できる人とブログで表現されているのだと思う。
また、僕が「人に期待しない」こと以上に難しいと感じるのは、「自分に期待しない」ということだ。
人間は、まぁたまには他人への献身が先立つ人もいるのだと思うけど、やはり自分に期待してしまうものだとは思うのだ。
「もっとできるはず」「もっともっとイケてる人間になれるはず」「もっとお金を稼げるようになるはず」「もっと人から尊敬されるはず」
能力が高い人ほど上記のような感情は持っていると思う。そして、それらの感情を燃料にして、更に能力をあげ、実際にでかいことを成し遂げる人もいるだろう。その達成感というアドレナリンは、さらに自分への期待を高めてしまうと思うのだ。
その、一種の努力の燃料でもある「自分の期待」を捨てることなど簡単にできるのだろうか。人よりも自分が劣っていることを簡単に認め、人の力を借りることを素直に実行できることは、どんなに難しいだろうか。
今までの27年を振り返ると、僕は僕よりも優れた人が身の回りにいる環境に身をおいていたと思う。高校にしろ、留学先の大学にしろ。本当に自分とレベルが違うので、一瞬「あ、やっぱり次元が違うな。努力でどうにかなるレベルじゃない差があるな」と感じることも多かったのだけど、しばらくするとやっぱり自分への期待が再燃してしまうのだ。
しかし、自分への期待が全く消えて無くならないからこそ、ちょっとした努力だとか、頑張りみたいなものをずっと続けてこれたと思うのだ。その期待を消えて捨て去ってしまうと、自分がどうなってしまうか想像すらできない。
もちろん、人間一人ができることなど限られていて、どう考えても周りの力を借りれる方が大きなことを成し遂げられるだろう。それも頭でわかっている。頭でわかっていても、自分への諦めができなくて、自分の向上に時間を使ってしまう。
今、自分の向上のことにリソースを割いている僕は、やはり子供っぽいのだろう。
その子供っぽさがこの先自分自身に何をもたらすかは、想像できないと思いつつ、なんとなく想像ができる。僕ができることは、このままだと頭打ちになるだろう。
その頭打ちになったタイミングで、自分自身を諦められるか、諦められずにさらに自分に期待をするかは、その時の僕の状況が決めるかもしれない。少なくとも、頭では後者であることを願っている。だが同時に、僕が僕を諦められるほど大人になれるかということについては、ある意味期待できないことだ。
簿記について考えてみる
簿記二級を今年取ろうと思っていて、まぁ少しずつ勉強しているのだけど、少し感動したことがあったのでその共有を。
実は、僕は大学のとき商学部であって、2級の商業簿記の範囲はすでに一通り勉強していた。しかも、結構まじめに勉強をしていたので、成績はAだったと思う。
だから、ある企業の取引が起きたときに、その仕訳をどうするのかというのは感覚として分かるし、今勉強しても「あぁ、これね」みたいに感じる。ただそれは、簿記の本質を理解しているわけでなく、ただ作業としてこなすことだった。
そもそも簿記って何なの?何のためにやるんだっけ?という問いにふと立ち返り、色々調べてみた。僕の中では、以下の本が一番わかりやすかった。
簿記は何のためにやるかをまず教科書的に答えてみよう。
それは、究極を言うと、財務諸表、特にBS(貸借対照表)とPL(損益計算書)を作ることである。
BSは、企業が今「何を持っているか」というのが、資産、負債、純資産という項目に分かれて見える化されるのがBSだ。また、BSは現時点での「何を持っているか」というのを示すだけでなく、その企業がこれまで「どれくらい儲けてきたか?(利益剰余金)」とか、「どの程度借金していたか?(長期借入金)」、「その企業の利益の源泉(固定資産や無形固定資産等)」等、ある程度長期的な企業としての歩み、積み重ねがわかるものだ。
PLは逆に、「その会計年度において、どの程度の利益が出たか」という、まさに毎期に算出される企業の成績表のようなもので、積み重ねの概念は無い。BSとPLという2つの全く性質の異なった(ただ、2つは「利益剰余金」という項目で密接につながっている)情報から、その企業の状況を評価するのが財務諸表の役割の一つである。
簿記がすごいのは、「簿記をしていれば勝手にBSとPLが作れてしまう」ことだ。
簿記の中で「仕訳」という概念があるが、それはは、企業の取引を「借方」と「貸方」の左と右の勘定項目に分けて記録していくことを言うのだが、まずはこの勘定科目を2つに分けるという概念がすごすぎる。
「2つに分ける」という一言の中でも、実は分け方の種類はたくさんあって
・資産の増加 ー 資産の減少(左右の数字は一致する)
・資産の増加 ー 収益の増加(左右の数字は一致する)
・資産の増加 ー 負債の増加(左右の数字は一致する)
等というように「資産が増加する」という1つの現象でも、その背景事情(なぜ資産が増加したか)は、複数の種類があるのだ。仕訳は、経済的な取引や行動1つ1つを、「その背景事情は何だったのか」ということを明記しながら、記録していくアクションなのだ。
そして、この「取引に関するファクトとその背景事情を記録していく」ことを積み重ねていくと、なんとBSとPLが仕上がってしまうというものである。なぜかというと、その「取引に関するファクトとその背景事情を記録していく」というのは、換言すると、「その企業の取引により、資産や負債が増えたか/減ったのか(BSの観点)、それは費用をかけること、もしくは売上を立てたことによる結果なのか(PLの観点)を記録していく」そのものだからだ。
だから仕訳を積み重ねていって、期末にその結果を集計(合計)していき、「残高資産表」というのを作る。そしてその残高試算表を上下で分けると、勝手にBSとPLができあがってしまうのだ。
また、仕訳は一つの取引を左右に同じ数字を足しながら行うので、「左右の数字が一致しているか」を見ていけば、取引の記録が正しく行えているかを検証できるという点もすぐれている。
このすごさは、実際に手を動かして仕訳を実施し、実際にBSやPLに落とし込んでみないと実感できないかもしれない。。。しかし、この仕訳や簿記の仕組みが500年前から存在していたというのだから驚きだ。簿記はシンプルかつ美しい、普遍的なものであるということの裏付けである。「簿記は人類の最高の発明の一つ」と言われるのも納得である。ちなみに、この辺の簿記の成り立ちや普遍性に関連した話は以下の記事がわかりやすい。
てな感じで、6月に簿記の試験があるのでしっかり勉強し、合格できたらと思う。(こんな偉そうなこと言っといて落ちたら笑えない、、、)
良い人すぎて合うのが憂鬱というケースがある
今、感情が向かうままに久々の投稿をしている。。。
ついさっきまで、僕はある友人と過ごしていた。ベトナム人の女性で、僕が19歳のときに、ある日本企業が主催した国際プログラムで知り合った人である。
彼女はその時初めて日本に来たらしいのだが、ずいぶんと日本を気に入ってくれて、かつ僕を友人としても受け入れてくれて、なんと日本(しかも僕がいた大学)にも留学してくたような人だ。
その彼女が、日本でのMasterを終え、ベトナムに戻ると言う。
その前に久しぶりに会おうということになったので、高田馬場でランチとお茶をしていたのだ。
僕は彼女と知り合ってから、けっこう仲良くしていて、いっぱいテキストメッセージもしたし、彼女が留学する前に日本に旅行にしに来たときも良く合ったりしていた。結構仲が良かったと思う。
彼女が日本に留学しに来るときも、成田空港から暮らす寮に荷物を運ぶのを手伝ったり等もした記憶がある。だが、あるときを境に、あまりコンタクトも、合うこともなくなってしまった。
なぜかと言うと、合うのが単純に嫌になったからだ。なぜ嫌になったかと言うと、あるときを境に、彼女の人格が良すぎることを知り、彼女に会うたびに、自分の人格の駄目さを目の当たりにするのが嫌になってしまったのだ。
また彼女は非常に頭が良く、優秀な人でもあるので、自分の至らなさ(英語の上手さの差も含め)洗いざらいになってしまうような気がして、避けてきたのだ。僕は、自分のプライドを保つために「会わない」というような選択をしてきたのだと思う。
距離を置いてから少し時間がたって、その彼女がベトナムに帰るとのことで、約1年半ぶりくらいに会ってきた。彼女は相変わらず良い人すぎて、やっぱり自分が嫌だな、と思うことになった。
ついさっきに別れて、その感情をどうにか表現しようとして今ブログを書いている。
なぜ、人間はこうも自分を保存したがるのだろうか。
彼女は良い人で頭も良いが、決して威圧しているわけでもないし、ひけらかしているわけでもない。純度100%で良い人だが、僕が過剰反応しているだけなのだ。
どうして、純度100%の人の良さを、純度100%のまま受け入れることができないのだろう。僕は。なんでその純度100%の人の良さに、「自分のプライド」という変なスパイスを加えてしまうのだろうか。
僕は社会人になって4年目で、ある程度大人になったつもりだけど、ちっとも成長していない。結局は「自己保存」が一番重要な一人の人間なのである。
彼女は1mmも悪くない。悪いのは彼女の良さをそのまま受け入れられない僕だ。
お願いだから、少しでも良いから、「あなたのこういうところ良いけど、こういうちょっと気になるところもあるんだよね」と言わせてくれ。お願いだから、僕をこんな惨めな気持ちにさせないでくれ。僕の中の嫌な僕がこう叫んでる。
彼女はベトナムに帰っても、頻繁にまた日本に来たいと言う。
きっとその時は、僕に会おうと連絡をしてくれることだろう。
それに対して僕は、「もちろん」と返すことだろう。
その時の気持ちが、いずれ100%歓迎する気持ちで満たされることを願いながら、僕は今東西線の木場駅を過ぎたところだ。
「自己保存を超越した自己に、私はなりたい。」
と自分をより高望みしている時点で、それがまた自己保存を孕んでいることも気づかずに。。。
「どうやるか?」の前に「何をやるか?」に全神経を集中させるべきだという話
最近好きな人がいる。
好きと言っても、Fall in Loveではなく、どっちかと言うとAdmireという感じだ。
その名も森岡毅。日本最強と言ってもいい、伝説的なマーケターである。
マーケターとはつまり、「マーケティングをする人」だが、森岡氏はあのUSJをマーケティングの力でV字回復させた人だ。マーケティングと言うと、少し抽象的な言葉だが、要はビジネス上における目標に向けて、売れる仕組みを作ることである。
「売れる仕組みを作る」という言葉も抽象的なので、より深ぼると、企業として市場でどんな価値を提供するのか、という方針に従い、ビジネスのターゲットを決めて、その人が望むものを考え抜いて、そこに合わせて価値を提供できるサービスを作ったり、物を作ったりということであろう。
マーケティングの勉強をしていて、だいぶ色々な本を読んだのだが、この分野でどんな本よりも勉強になったのが森岡氏の本だ。彼のP&GやUSJでのマーケターとしての経験は、第三者の僕から見ても非常にスリリングでシビれるもので、氏の経験を通して語られるマーケティングに関する説明は、リアリティがあり、腑に落ちるものであった。
マーケティングだと、少し詳しい人だと4Pとかポジショニングとかをイメージするかもしれないが、氏のマーケティングに関する説明で、上記のようなマーケティングのHOW(具体的な手法)に関する記述は微々たるものだった。
具体的な手法に関する説明が少ないのは、それはそこまで重要で無いということだ。森岡氏は、HOWよりもWHAT(何をすべきか)を選ぶ重要性について説いていたのである。
・・・
選択と集中という言葉は、良く経営の文脈で使われる。
自社が実施すべき事業領域について手を広げすぎず、強みを用いて価値を発揮できる領域にて勝負する、という意味合いで使われることが多い。
そして、その「自分の強みが発揮できるところで戦う」ということは、まさにマーケティングにおけるWHAT(何をするのか)の思考そのもので、それはHOW(具体的な手法)よりも先立つものだ。このWHATを考え、選びぬいたからこそHOWを考える意味があるのであり、HOWから考えるのは本末転倒ということだ。これは、ITシステムを作るにあたり、業務要件を考え抜いてからシステム要件に落とし込むべきであり、システム要件から考えるべきでないことと同じことだ。
なぜWHAT(何をするのか)を特に考え抜く必要があるのかというと、単純に企業は、何か目的を実現するにあたり常にリソースが足りないものという背景がある。
少ない予算、少ない人的リソースの中で最大限にパフォーマンスを向上させることをゴールとすると、この選択と集中が欠かせない。どんな規模の会社でも、常にリソースは逼迫しているのだ。それは僕のもうすぐ4年になろうとしている社会人経験からも実感できる。
USJの話に戻ると、森岡氏が就任した2010年の早い段階で、USJを「映画に関連したパーク」でなく、「世界のエンターテインメントに関するセレクトショップ」と訴求する市場の範囲を拡張したのを皮切りに、まずは「小さな子ども連れの家族が最大限に楽しめるエリアを作る」ことをマーケティングにおけるWHATに据えた。
そのWHATに向けて、具体的にはどう作るか?どのようなプロモーションをするか?等のHOWが考えられたわけだが、やはり森岡氏のすごいところは、このWHATの的確さ。効果へ結びつく度合いだろう。ちなみに、森岡氏はWHATを決めるにあたり、効果予測を高度な数学を利用して実施しているとのこと。数学できるのうらやましい、、、
マーケティングの初期で利用される3C分析も、SWOT分析も、結局はその企業が何をするかのWHATを決めるためのツールでしか無い。結局企業は顧客に価値を提供できるからこそ存在しているのであって、その価値を提供できる分野を考え抜き、他を捨てるということが活動の骨子となるのだと思う。(もちろん、その後のHOW、またの名をエグゼキューションも重要であることは変わりはないが、、、)
ちなみに、「何をやるか?」を考えるのにあたり、その選択が的確かを評価する指標として4Sを考えると良いらしい。
- Selectiveか:実施するものが限定的か。選択されたものか
- Sufficientか:実現するためのリソースが十分か
- Sustainableか:中長期的に継続可能か
- Synchronizedか:自身の強みや特徴に結びつくか
むやみやたらに自分のリソースを費やすのでなく、リソースを使う対象の選択と集中が必要なのは、必ずしも会社だけでない。僕らの時間と金も全く同じように考えないといけないと思う。
僕たちだって、何かを得る(例えば喜びとか、幸せとか)をために生きているのであって、そこに至るために何をするか、はやはり考え抜かないと行けないと思うのだ。
時間も金も有限だし、僕たちが若い時間だって限定的なのだから、、、
すごく散文になってしまったのだが、とにかく感じたことは、「マーケティング」という難しそうな言葉だからと言って、何かすごく特別なことをやるのではない。効率的に成果を出すために、「何をやるのか」を戦略的に考えるという、至ってシンプルな考え方がその骨子であるのだ、ということだ。
新しい何かを学ぶ際の読書戦略
読書が好きな人は多いと思う。
読書と言っても、それにより何を得たいかは人それぞれで、小説の世界観に浸りたい人もいれば、旅行先の情報を仕入れたい人もいるだろうし、何かを学びたい人もいるだろう。
僕も読書が好きで、もっぱら今まで自分が知らなかった何かを学ぶために行っているのがほとんどのケースだ。社会人だと特にこの目的のために読書をしている人が多いと思う。
読書をし始めたのは21歳のときからだが、社会人になった23歳以降は本当に色々な本を読んだ。
個人的に、読書に自分のリソースをかなりベットしていて、平均週に1、2冊くらい読んでいる。たぶん年間だと冊70~80冊(数えたことないけど、、、)くらい。でも、正直この数量を読むとなると、他の趣味の時間が確実に減ってしまうのが悩ましいところだ。読書に人より時間をかけているということは、他の人が時間をかけていることに時間を使えていないということでもある。時間は有限で、何事もトレードオフだと思う。
ただ、毎年これだけ読んでいると、何となく「読書の効率化」が身に付いてきていると思う。今日はそのことについて書いてみたい。
まず、読書の効率化の要素は2つに分解されて、それは以下だと考えている
- 読書スピード(分数あたりに読み込める文字数)の向上
- 得ること・身につけることをゴールとすることを極力少ない冊数でこなす
そして、僕は何より後者、「読む本の選択」こそが、読書の効率化のポイントだと考えている。読書スピードを上げることは、例えば仕事でなるべくメールを早く打てるように辞書登録をするのと同じだ。効果的だけど本質的では無い。本質的なのは、そもそも打つべきメールの量を減らすように工夫することだ。読書も、「選択と集中」こそが鍵だと思う。
では、読書の「選択と集中」をどうするか。
これは、完全に個人的見解なのだが、大抵のノウハウ本はだいたい3種類に分けられて、その種別を理解した上で適切な物を選び、適切に順序立てていくということが重要だと考えている。
僕の誠に勝手な3種類の種別だが、今回はビジネパーソンにも馴染み深い経営学で考えてみよう。
- 古典的教科書:主に研究者やその領域におけるがまとめた、経営学における古典と言える本。例えば、ピータドラッカーの『マネジメント』や、フィリップ・コトラーの『マーケティング・マネジメント』、マイケル・ポーターの『競争優位の戦略』等。ページ数は800~1000くらい。長いし重い
- 教科書のまとめ:上記のような、古典的教科書を別の誰か(その人も研究者やその領域に特化していることが多い)がまとめたもの。例としては、グロービスMBA系の本。MBAマネジメントやMBAマーケティング等)。ページ数は300くらい
- ビジネス現場第一人者の集大成本(うまくネーミングができないw):現場における第一人者が、教科書とはまた別の切り口、観点で独自の経験・体験を交えながらある分野について体系的にまとめている本(例として一概に指定できない)。ページ数は250~300くらい
1は、買うと1冊1万円はくだらない。2はだいたい3000円くらいで買えるものがほとんどだ。3は1500円から、一番高くても3000円くらいだろう。
んで、めちゃくちゃ個人的な意見として聞いて欲しいのだが、僕は上記の種別の中では、3→1の順番で読書を進めると良いのではと考えている。2は、1が読めるなら正直読む必要は無いのではないか。
なぜ3から読むのかと言うと、3はビジネス現場における経験に裏付けられたものが多く、またその分リアリティのある事例とともに読めるので、簡単に言うとめちゃくちゃとっつきやすいのだ。
ただ、3は著者の数だけその分ロジック、体系があるので、もちろん全部が全部読み込むことはできない。重要なのは、3の中でまた著者を選ぶということだ。
この「著者を選ぶ」というのは本当に重要だと思うのだが、一概に経歴やアマゾンのレビューじゃわかりにくいのが辛いところだ。また個人の好き嫌いも多い。
だが、やはりビジネスにおいて、誰が見ても「まじすげぇ」と思えるような実績を持つ人の本は当たりが多い気がする。また、その領域における第一線で活躍していた人の本は、勉強になる物が多い。
例えば、以下のイメージだ(敬称略)
- 経営学:稲盛和夫、松下幸之助(どちらも経営の神様的存在)
- 論理的思考とフレームワーク:大前研一、冨田和彦(コンサル業の第一人者)、
- マーケティング:森岡毅(USJを復活させた人。元P&G)
- ファイナンス:石野雄一、森生明
- コミュニケーション:メンタリストDaiGo w
これらの人の本は基本的にあまり外れが無い。ただ、稲盛和夫で言うと『アメーバ経営』であったり、大前研一で言うと『企業参謀』のような、やはり一番有名な本からスタートするのが無難だと思う。
それで、これらの人の本をありがたく読了した後に、歴史的に残っている古典的教科書を読んで、3の本で得た色々な事例、理論について、1の歴史的に残るフレームワークに沿って整理するわけである。
ただ、古典的教科書は、本当に読むのが辛い。長いし、そもそも日本語訳がわかりにくいことも多いのだ。ドラッカーの『マネジメント』ととか、バーバーラミントの『考える技術 書く技術』なんて本当に最悪だ。
そこで、グロービスみたいな、日本人が古典的教科書の内容を再編集した本(上記区分で言う2)を読んで見るのだが、なぜだかわからないのだけど、本当に頭に入らないのだ。。日本語としても構成としてもしっかりしているはずに、なんというか、中身が薄っぺらい。やはり、色々な古典的内容の良いとこどりだけすると、原液が薄れに薄れてしまうということだろうか。。。ただ、学べる知識の内容と比べ、めちゃくちゃ金額が安いので、コスパが良い。正直僕も、1の本は高くて買いたくてもなかなか買えないので、2に頼ることが多い。
ただ、多少読みづらくても、時間がかかっても1を読むほうがためになると僕は考えている。バーバラ・ミントの『考える技術 書く技術』なんて、まずは日本語を理解するために1回読んで、その後全体像を把握するためにもう一回読んで、その後各論をしっかり理解するために3回目を読んで、最後にメモをとるために4回目を読んで、、、と4回でやっと身につくくらいだった。まじで辛かった。。。だが、めちゃくちゃためにはなった。
まとめると、まずはとっつきやすさという意味で、ビジネス第一線で活躍した人の集大成とも言える本で知識理解における土台を整えてから、これまた一流の研究者によりまとめられた、歴史的にも価値がある体系をインプットするというのが、何かスキルを身につける際の、僕の考える読書最善戦略だ。
ちなみに、NewsPicksBooksみたいな、今流行りの人が書いている200ページそこらの文字が大きい本は本当にろくなものが無い。。。自己啓発で終わるものがほとんどで、あまり読む意味無いと個人的には考えている(でも、僕こそそういう本をめちゃくちゃ読んで後悔するんだけど。。。昨日も『Gacktの勝ち方』という、エッセイ集読んじゃったし。。
「マーケティングの理想は、販売を不要にすることである。」の本質
年明けから、マーケティング関連の本を4~5冊読んでいる。
その中である気づきを得たので、ここでまとめておきたい。
表題の言葉は、かの有名な経営学者のピーター・ドラッカーが、著書『マネジメント』でマーケティングについて述べた有名な一文である。
また、ドラッカー氏が残したマーケティングの定義:顧客の創造 は、私が新卒1年目で受けたマーケティングの外部研修でも引用されていた。
「マーケティング」というと、なんだか抽象的ではあるが、ドラッカー氏が残した上記の表現は、なんとなく「そんなものなのだろうな」と感じるくらいで、自分の中で腑に落ちた訳ではなかった。ただビジネスパーソンの中ではドラッカー好きな人多いし、なんか良さげなこと言っているくらいだろうな、という感じである。
・・・
少し話が変わるが、「バリュープロポジション」という言葉について話したい。
僕は今は営業最前線には身をおいていないが、営業をしていたときに、お客様に提案するとき、特にコンペのときなんかは身にしみるくらい「うちのバリュープロポジションは何なのか?」と唱えていた。
Value(価値)のProposition(提案)は、簡単に言うとその会社にしか出せない価値である。
お客様が求めているもので、競合が提案できないものこそ、その会社独自の価値となり、そこが営業における提案の肝、受注の鍵となるものだ。法人営業では、このバリュープロポジションを提案フェーズの初期に見極め、そこに沿った提案を顧客のキーパーソンにしていくことが、シンプルかつ一番強力な戦略だ。
なぜ、今私がバリュープロポジションの話をしていたかと言うと、マーケティングの本質は、このバリュープロポジションそのものを土台にして考えるべきものということを理解したからだ。
・・・
マーケティングというと、何をイメージするだろうか。
価格戦略?広告?ハブスポット?集客セミナー?パンフレット?デジタル?オートメーション?
少し詳しい方だとマーケティングの4Pという言葉を知っているかもしれない。
4Pは、
・Product:どんな商品、サービスを
・Place:どのような流通経路にて、場所にて
・Price:どのような価格にて
・Promotion:どのような広告、プロモーションをして
売っていくか
というマーケティング施策を効果的、効率的にしていくために存在する一番有名なフレームワークの1つだ。僕も大学一年生のときマーケティングの授業で一番初めに勉強したのを覚えている。
私も今までマーケティングと言ったら、上記の4Pに関する施策と思っていた。そしてその認識はそれなりに色んな人に共有されていると思う。
ただ、4Pを考え抜くことは、あくまでマーケティングのHOWであり、そのものがマーケティングにはならない。マーケティングの本質は、さきほど話した「バリュープロポジション」を考えぬくことそのものだ。
バリュープロポジションを考えることはすなわち、その企業が何のために存在するのかを考えることである。
もし、企業Aが提供しているプロダクトが企業Bのそれと似通っていたとしよう。
おそらく、細かな仕様、機能で言うとAとBは異なるかもしれない。ただ、お客様によってどう受け止められるか、そのプロダクトにより得られる効用(=顧客価値)が同じだとしたら、そのAとBは差別化できないので、価格競争をすることでしかお客様に買ってもらうことができない。
価格競争で、一時的に売上を伸ばせたとしても、その先に待っているのは利益の圧縮とキャッシュフローの悪化だ。そして、少し短絡的だが、極端な話それが続くと倒産だ。
企業が存在するのは、その企業が提供するサービス・プロダクト・ソリューションにより「ありがたいなぁ」と、思ってくれる顧客がいるからこそであり、そのありがたさが別の企業でも提供できるのであれば、企業は存在する意味が無くなってしまう。。
少し話が周りくどくなったが、マーケティングは、「その企業が顧客にどんな価値を提供したいか」により、施策の詳細を決めていくべきなのであり、施策の詳細は、バリュープロポジションに先立つものなのではないのだ。
4Pに沿って価格を決めたり、流通経路を決めたり、広告を打ったり、パンフを作ったり、、、マーケティングオートメーションツールを利用して顧客育成を効率的に行ったり、、、
マーケティングの様々な施策は、それぞれで完結するものでなく、「企業のバリュー・プロポジションは何か」の論点を土台にして、一本筋の通った一連の流れで進められるものだ。
そして、バリュープロポジションを明確に見極め、それを土台にしたマーケティングの施策が効果的に実施できたとしたら、、、おそらく販売は不要になる。なぜなら、その企業でしか提供できない価値が明確になっているのだから。顧客のニーズは、その企業によってでしか満たせることができないのだから。よって、かのドラッカー氏は「マーケティングの理想は、販売を不要にすることである。」という名言を残したのだ。深ぇ。
バリュープロポジションは、営業のための言葉だと思っていたのだが、マーケティングでも拠り所であるべきことだというのを認識した。
また、マーケティングはマーケティング部門がやるものでもないことを知った。マーケティングは、企業を構成する人全員によって成されないといけない。だって、それを考えることは、すなわちその企業が存在する意義を考えることそのものなのであるから。
稲盛和夫がらぶなかずのりが書きました。
自身のニュース読み解きリテラシーの無さを痛感したイラン・アメリカ問題
正月休みもそろそろ明け、さぁこれから仕事始めだ!!!というタイミングでとんでもないニュースが入ってきた。
本当に、びっくらこいた。そこまで中東情勢に対して念入りにウォッチしていたわけでもないし、そもそも中東に関する問題は、中東における覇権を取りたい米国とロシアという経済対立軸、イスラム教価値観に対するキリスト教的価値観という宗教対立軸、また、イスラム教の中でのスンニ派やシーア派の対立、原理主義の台頭、ISIS等、、、問題構造が複雑すぎて全く理解できない。。
だが、そんな曖昧な中東情勢に対する理解を超越するようなブレーキングニュースだ。なんとなく、「これガチでイラン・アメリカで戦争すんじゃないの」と恐怖を感じた。
そしてなんとなく、FacebookでもTVでも、「無鉄砲でやりたい放題のトランプが、深い背景も根拠も持たないまま、勢いで攻撃をしてしまった」というような世論・コメントが大きく見られた。
以下のツイートがバズって、上記のような認識はさらに僕の中でも深くなった。
1. I’ve had a chance to check in with sources, including two US officials who had intelligence briefings after the strike on Suleimani. Here is what I’ve learned. According to them, the evidence suggesting there was to be an imminent attack on American targets is “razor thin”.
— Rukmini Callimachi (@rcallimachi) 2020年1月4日
トランプが攻撃した対象に関する、米国に対して想定できる脅威のエビデンスについては殆ど無い、というのがこのツイートのビックメッセージだ。
そして、「ふざけんなトランプ!!!」という憤りと、戦争が始まるのではないか、という恐怖をもとに毎日関連ニュースを眺める日々が続いた。
しばらくすると、本件に関するこんなニュースが今度はFacebookで共有されるようになった。
この記事の大きなメッセージはこれまでの「トランプ=ならず者」という観点の軍事攻撃への批判とは全く逆の立場をとっている。要は、殺害された者は完全なるテロリストであり、米国と関係諸国への脅威が極めて高く、その脅威がこのテロリストにより実現されるというタイミングでトランプは「殺人」という手段を選んだ。つまり「トランプは合理的判断をした」という観点で述べられているのだ。
そしてこのニュースが表立ってからというものの、いろんなメディアで上記観点を補強するようなニュースでFacebookのタイムラインが溢れた。そして、僕も「この攻撃は、もしかして必要なことだったのではないか」、と思うようになった。
それ以降、イランによりアメリカ軍基地へのミサイル攻撃を通して、イラン・アメリカ間での開戦間近という極限の緊張状態となったが、蓋を開けてみれば、上記攻撃も用意周到に米国に通知をされていたり(要はポージング的攻撃だった)、イラン軍による人為的ミスを背景としたウクライナの旅客機の撃墜等のニュースも間に挟まれ、緊張状態は緩和されてきている様相だ。今回の件による勝者はトランプだととか、トランプ、イラン双方にって良かっただとか言われている。
とりあえず戦争は避けられそうだと安堵はしているが、今回の件を通して明確になったのは、自分の意見というのは、簡単にもSNS上の世論にてコントロール可能なほど脆弱だったということだ。
僕の今回の件に関するスタンスは、Facebookでの世論通りであった。逆に言うと、Facebookの世論の次第で、僕の思考やそこに基づく行動は、コントロールされる可能性があるということだ。これは極めて危険な状態だと言える。
SNSによる情報共有・拡散が当たり前になった今、自分の頭を本当に遣わないと、平気で安直な判断を下してしまうような環境下であることを強く認識しないといけないと思う。人の解釈・理解を通した2次情報・3次情報だけをもとに情報処理を進めていくと、簡単に人の意図通りの情報処理となってしまう。
だからといって1次情報を取得できるようなフットワークも時間も作れないが、上記事実を認識し、SNS上での情報に対し向き合うべきだと強く痛感する。
藤野氏と同様、私がSNSでの言動をチェックしている、元マイクロソフト日本法人社長の成毛氏がFacebook上で「ゴーンが記者会見で何を話したかはほとんど意味はない。せいぜい昼の主婦向けワイドショーのネタでしかない。問題なのは明日のEU圏での記事でありネット上での世論だ。」と投稿していたが、それはこのようなSNS上で世論が簡単に形成できてしまう現状を示唆しているとも言える。
ファクトファーストでなく、SNS解釈ファースト。
この事実を理解していないと、僕もあなたもSNSで形成される世論の餌食となってしまう。