Kazunoriの思考と日記

28歳男・IT企業事業企画/推進・一児のパパ・タイ人の妻・埼玉在住の人がまじで徒然なるままに書いているブログ

真のコミュニケーション長者

今日は久しぶりだし、連投します。表題は、最近ずっと考えていたこと。

まず、コミュニケーションは、仕事をする上でも、生きる上でも絶対に欠かせないもので、それが上手でないと、それぞれの人が持つ自分の良さを十分に活用しきれないと思っております。

じゃあ、「コミュニケーション力とは何なのか?」というと、いろんな答えがあると思っております。

  • プレゼンが上手
  • ヒアリングがうまい
  • 誰とでも気兼ねなく話すことができる などなど、、、

 

上記のようなことから一つ抽象度をあげると「相手の立場を想像しながら、最適な会話のやりとりができる」ということだと思うんですね。要はコミュニケーションそのもののコアは「想像力」であると。

質問された時、まずは相手が求めていることの本質を、相手の立場や様子から必死に想像して答えを考えること。またその答えを、相手の立場や物事の理解度、というような角度から適切にブレークダウンしてあげることも必要です。

上記のようなことは、日々の仕事でも身に染みていることだし、僕もブログで何回も主張してきた気がします。しかし、最近僕は、コミュニケーション力には、さらに上のレイヤーがあることに気がついてしまったのです。

まず、答えを先にいいますと「自分の感情と事実を分離して相手のことを受け入れること」です。

実は、相手の立場になって物を考えることは、日々それを意識しているならば、さほど難しくないのです。あとは、実践を重ねていくことで、「このシーンでこのようなことを聞かれている場合、答えるべきものはこれだな」という想像もパターン化を通してそこまで難しくなくなると思ってます。

コミュニケーションを通して一番難しいのは、コミュニケーションにおける自分の感情を明確に捉え、その感情がそもそもこのコミュニケーションにとって良いものか、悪いことなのか、という状況判断をしながら感情をコントロールすることなのです。

僕がなぜそう考えているかというと、まさに最近上記のことができない自分に気づいてしまったからです。

「坊主憎ければ袈裟(けさ)まで憎し」という言葉がありますが、要は、人間は個人的感情の奴隷となり、その感情が物事の判断にまで影響を与えてしまう、ということが往々としてあるわけです。

そしてその個人的感情は、誠に恐ろしいことに、事実(ファクト)の捉え方にまで影響を与えてしまうのです。例えば、「俺はあの芸能人は嫌いだ」という感情が働いた場合、Googleでその芸能人における悪い噂や失言などをどうしても拾い集めようとしてしまうモノです。それが例え、メディアの嘘ででっち上げた記事だったとしても。心理学用語でいうと、そのような、ある感情に沿ってバイアスがかかった行動や判断をしてしまうことを「確証バイアス」といいます。

まぁ、難しいことは脇に置いといて、人は好きなことに関しては、その好きという感情を前提に動いてしまうし、その逆もしかりです。それは各個人が思い当たることと思います。そして、面白いのは、そのような確証バイアス度が強い個人ほど、「俺は感情で動いておらず、あくまで中立である」と言い切ってしまうところなんですよね。

 

少し悪口を挟んでしまいましたが、感情的になっている時、まず「あ、自分感情的になっているなー」と気付けること。また気づいた上で「この感情は、ゴールの達成を第一として考えたときに、良いものとなりえるか、悪い結果を導いてしまうか」という判断を客観的に実施し、後者だった場合にとっさにその感情を押さえ込む、ということは、余程達観した人でないとできないと思うんです。逆にそれができる人こそが、真のコミュニケーションの長者だと僕は考えます。

 

僕は、そのような達観した立ち振る舞いができないからこそ、大の大人でもできる人が少ないからこそ、できるようになりたいと考えております。じゃあそのアプローチはなにか、と考えたときに、やはり

  • 自分の感情の変化に敏感に気づくこと
  • ISSUEドリブンかつファクトベースに物を考えること

の二つに尽きると思うんですよね。まぁこの二つが非常に難しいのだとは思うのですが。

 

コミュニケーションをとるとき、もちろん感情的であることが良い影響を与えることもあると思います。親友との忖度ない、感情的なコミュニケーションは、友情を雨降って地固まらせると思うし、夫婦間でも、感情ドリブンでのコミュニケーションがWorkする場合もありますし。

一方、コミュニケーション時、自分の感情を第三者的に捉えられると、コミュニケーションのレベルが一つ上になるような気がしてます。まぁ、、、、人間は感情の奴隷だし、すっっっげーーー難しいことだと思うんですけどね。 おわり。

 

インプットが先かアウトプットが先か

お久しぶりです。

毎度こういうこと言って申し訳ないですが、ちょっとまたブログを頑張ってみようかと思います。

ブログを更新できなかった数ヶ月、なかなか忙しい日々が続いておりました。
仕事でも少し新たなことが始まり、また、前回話した友人と一緒に演奏したり(ほとんど飲んだくれているだけですが!)することが増え。

また、現在住んでいるマンションの更新時期に合わせて引っ越そうと思って、家探しやら契約やら、その準備やらがなかなかに大変でした。
一方しっかり選んだだけあって、めちゃくちゃ自分的にも嫁さん的もにも良い家が選べたと思います。僕的なお気に入りは、キッチンが充実していることと、USENの音楽サービスが無料で利用できること。AEONが徒歩4分のところにあること。また、めちゃくちゃ素敵な銭湯施設が徒歩10分のところにあることです。

朝銭湯とサウナに行って、8時から仕事をする、という夢のようなことができます。今から楽しみで仕方がありません。。。

あとは、料理をガチで覚えようかと思います。最近28才になって、そろそろガチで身体のことを気を使った方が良いなと思い、栄養と調理について本格的に学んでいこうと思ったのと、来年子供が生まれるので、嫁さんが料理ができなくなるシーンも多々あるだろうな、と。

また、引越し先は大宮付近なので、都心に通勤することはもはや全く考えておらず、フルリモートが前提となります。まぁ、家の中にいることがほとんどなので、僕なりに家族に貢献できることはなんだろう、と考えた結果、めちゃくちゃ栄養がある美味しい料理が作れるようになることだったわけです。まぁ、まだスタートしていないので、この辺はどうなったかは状況報告できると良いなと思っております。

 


「じゃあ料理をするか」と決めた時、皆様はどういうアクションをとりますか?

自分が料理について思い立った時、まず何をするかと言うと、「栄養と料理の構造を掴みに行く」です。

どう言うことかと言うと、そもそも「料理をなんのために行うか?」と考えた時、もちろん人によって答え異なると思うのですが、僕にとっては「効率よく栄養を摂取すること」なんですね。

そう前提を置いた時、じゃあ「栄養とは何か」と考えると、「人間が健康的に生きるためにIntakeしないと行けないもの」と導き出すことができます(当たり前のことを言っているだけ)。

そこまで考えると、「じゃあ人間が生きるためには、どういう栄養をどれくらい取れば良いのか」という問いが生まれます。そしてその答えは、その人がおかれる状況・立場によって変わると思います。例えばボディビルダーの人が必要な栄養と、僕みたいなPCの前で頭を働かせながら仕事をこなしている僕が必要な栄養は異なります。ただ、まぁそうやってその人の立場や状況を考えた時に、少なからず答えに近しいものはあるのだと思います。

そうやって、なんとなく必要な栄養が見えてきたときに、じゃあその栄養をとるために最適な食材はなんなのか、という問いに移ります。一方その問いは独立してはおらず、「どんな調理方法が最適か」という問いと併せて考えられないといけません。なぜなら、調理方法によって栄養素が死んだり、逆に活かされたりする(よりおいしくなる)からです。その各食材における栄養素の組み合わせ、またその栄養素を活かすための調理方法におけるロジックのつみかさな、僕は料理をそう捉えているわけです。(もちろんこれが唯一の捉え方ではない)

料理をそう捉える場合、やはり「とりあえずレシピを覚える」、というアプローチは最適でなく、まずは「人間の体とそれに必要な栄養について理解すること」と、「食材について理解すること」、最後に「食材の栄養が活きる調理方法について理解すること」というアプローチをとるわけですね。そうやって、人間の身体ー栄養素ー調理 の全体構造をまず把握して、それを頭に入れつつレシピだったり、具体的な調理方法を覚えていくわけです。

なので、「料理をやろう!」と思い立った僕がまずやったのは、「とにかく知識を得るために本を読みまくること」でした。笑

もちろん、この辺は身体で覚えながら、とか、実際やって失敗した方が近道だよ、とかいろんな考え方ややり方があると思います。僕も、理想的なのは理論と実践を同時並行で進めながらが良いと考えてます。笑

 

一方、理論と実践を同時並行に進める、つまりインプットとアウトプットを同じタイミングで実施していくのは、めちゃくちゃ負荷がかかるものだと思っていて、、、、。相当頭も使うし、気を使うし、僕の場合はちょっと精神がもたないんですよね。。。人によってそれが全然平気な人もいらっしゃると思いますが。

僕は実は新卒1年目の時も、往訪がない時間は、3ヶ月くらいずっと中目黒GTタワーの下にあったスタバに籠もってずっと資料作成に関する本を、営業電話もせずに読んでおりました。もちろんその行為自体が良いか悪いかはわかりません。少なくとも、新卒の人がオフィスから逃げずっとスタバで読書する、というシーンだけ見ると、ぶっちゃけ「ダメじゃね?」と我ながら思ったりします。

一方、僕はその期間は本当に資料作成のことにだけに集中しインプットができました。その結果、もちろんその後の提案書作成のアウトプットを特に悩み無しにできるようになりました。要はその後の資料作成における生産性には確実に貢献していた期間だったのです。

僕にとっての料理も同じで、まずはインプットからスタートしないと、そもそも実行まで移すことができない、、、という僕の弱さや至らなさから導き出される最適解、という感じですね。このアプローチは。

まぁ、ちょっとどうでも良いことをつらつらと話してしまいましたが、要は伝えたいこととしては、何事も全体構造をまず掴むこと、というのは、その後の生産性や効率性に確実に良い影響が出るのでは?ということでした。

なので、タイトルの「インプットが先か、アウトプットが先か」という問いに関しては、僕は確実に前者なのかな、と個人的には思います。

 

もちろん、この答えは十人十色だと思ってますし、その人の性質それぞれで最適解が異なるものなんだとは思ってます。

新しいことをするときはいつも寝れなくなる

久しぶりの投稿だ。

 

いつも十時半ごろに寝てるけど、今日はなかなか寝付けない。

 

興奮や緊張が入り乱れた感覚が僕をなかなか寝かせてくれない。

 

こんなときはいつも決まって、新しいことを始めた時や、新しい環境に身を置くとき。また、昔は好きな人や、Tinderでめちゃめちゃ可愛い(っぽく見える)人と初めてデートするときもこんなんだったかな。

 

いずれこのブログにも書こうと思うけど、最近新しいことを始めた。それが、良いか、悪いかわからないけど、僕にとっては意味合いが大きなことで、それでドキドキしてしまっている、、、。

 

寝れないことは辛い。明日も死ぬほど頭使わないといけないし、英語商談もあるし、、、、

 

でも、この感情の昂りは、きっと僕にまた違う世界を見せてくれる。いままで感じられなかったことを感じさせてくれるものだと思っていて、それを今は愛おしいとさえ思う。

 

新しいことを始まるときのこの緊張はどんなに歳をとっても変わらず味わい続けるのだろう。

 

でもその経験を嫌だと言うほど経た時に、自分がどんな人になってるのだろう?という興味もある。

 

寝れない夜の完全なポエムになったが、まぁ一言言うとYouTube始めたので、まぁこれからコツコツがんばろうと思います。動画溜まってきたら共有しやす。

営業こそが全てである

めちゃ駄文です。

 

営業現場をサポートする立場になってしばらくたつ。

特に一番メインに担当していたお客様を、今年の1月でほとんど引き継ぎを完了してから、いわゆる営業として受注したり、お客様とコミュニケーションをとったり、ということが無くなった。

いつのまにか、営業としての目線から離れた場所でものを見るようになったかもしれない。営業現場からの終わりなき問い合わせや理不尽な要求に苛立ちすら感じるようになったここ数ヶ月。

しかし昨日、やはり「すべては営業である」、と痛感した出来事があった。

僕がメインで持っているプロジェクト(サービス)について、ある営業が大受注をしたのだ。4月に始まったサービスだったが、開始依頼ずば抜けての大受注である。

本案件のために、僕はベンダーと交渉し、仕入れ金額を安くできないかと交渉したり、色々と会社の営業ともコミュニケーションを取っていた。その結果勝ち取った受注については、僕が自分が営業しているのと同じくらいの嬉しさがあった。自分が営業をしているときの感情の起伏を思い返すきっかけとなった。

僕は営業時代、自身が担当している案件で、大きく2つのコンペで受注した。

その2つのコンペは、どれも6~7社内での競争で、RFPが出る前のお客様とのコミュニケーションから、実際にRFPが出た後の提案ストーリーを練り、スライドを作成し提案するまですべてが大変だったが、受注したときの嬉しさといったら、言わずもがなである。受験勉強して第一志望に合格したときとも似ていたかな。。。

自分の努力が報われた感覚。そしてお金を払ってくれるお客様から信用を勝ち得た感覚、すべてが自分の自己肯定感を満たす要素となった。

営業現場にいると、小さな受注から大きな受注まで、日々何かしらの「信用(=お金)のやり取り」が行われ、失注であれば自信を無くすし、逆に受注となれば自信になるし、やはり直接的な市場からのフィードバックにより自身の感情に大きな影響を受けるのだと思う。

僕自身は、正直「ビジネス上に意義がある」とか、「世の中のためになっている」とかではなくて、人間として単純に「認められたい」という感情によるものなのだと思っている。少なくとも、僕の中の世界では、それが全てだ。

そして「営業」という仕事は、その「認められたい」という感情を直接的に満たす要因となっていたのは事実だ。

おそらく世の中には、僕なんかよりももっと高尚な理念を持って仕事をしている人はいると思う。自分よりも世の中で役に立つこと、価値になること、を考えて仕事をしている人は多いはずだ。

しかしながら、僕にとってのスタートは、「自分が認められること」なのかもしれない。自分が認められたいから、いかに相手に役に立つか、相手の立場になって考えぬけるかが重要だ。

僕にとっての起点は「自分のため」ではあるが、その手段のために「相手の立場になって考える」という構造で、ビジネス上やはり後者の「相手の立場になってものを考える」ということができないと、話にならないと思う。

 

うまく表現できないのだが、最終的なゴールは「自分のため」という人もいれば「世の中のため、相手のため」という人もいれば、人それぞれなのだが、結局そのために必要なのは「相手の立場でものを考えらえる想像力」なのだ。

そして、営業という仕事は、相手のために提案して、そのフィードバックが自分のためになるという、僕にとっては最高の生きがいとなる仕事だったんだなと痛感するのだ。

個人としての「最終的に自分のために、相手の立場になって提案する」ということが積み重なれば、「会社のステークホルダーのために、世の中の立場になって価値を生み出す」という、会社としての理想的な姿になるのではないか。

そしてその理想的な姿に向けては、市場と密接に向き合っている営業こそがすべての起点なのだと思う。

僕は正直、営業第一線ではないのだが、自分次第で営業マインドを持ち、営業ならざる営業として働くことはできると思う。ぜひともこの「受注」の感覚は忘れずに働き続けていきたい。

そんなことを考えた。

与沢翼氏の『お金の真理』を読んで

昨日もぐっすり寝て、運動もしてだいぶ精神の体調が戻ってきたところだ。

久々に、読書感想文でも書こうと思う。昨日届いた与沢翼氏の『お金の真理』を読んだ。

ちなみに、私は与沢氏のことは、特別好きという訳ではないが、なかなかに学ぶところが多い人だな、思っており、Facebookでフォローし、彼の情報発信は一通りチェックはしている。ちなみに、一度ブログでも取り上げた気がする。

kazunori88ta.hatenablog.com

 

この、自分が決めたことは必ずやりきるというストイックな姿勢が素晴らしいと思う。


さて、肝心の本の中身だが。

簡単に言うと、「お金持ち」になるための主に心構えを現在総資産が70億程度ある与沢氏の体験・経験により語られる。一部重複のある話も多いが、基本的には「まぁ、そんな感じだよね」と概ね共感できる話が多い(共感と実際に実行できるかは違うが。。)

 

与沢氏は僕たちから見るとかなりのお金持ちではあるが、だからと言ってすごく特別なことを実施している訳ではない。僕たち庶民から見ても、「まぁお金を貯めるのであれば、こう言う風にしないとだめだよね」と言う、シンプルかつ当たり前のことが本文中には述べられる。いくつかピックアップしてみよう。

 


短絡的な欲を捨て、消費を抑える

 

与沢氏は「秒速で1億を稼ぐ男」と世間から言われていた時は、それはそれは莫大なお金を使っていたそうだ。スーパーカーや六本木のマンション、そして幅広い女性や交友関係などに、だ。今となってみると、これらは全て無駄金だったとのこと。

上記のようなお金を使い方については、僕たちからみるとちょっと極端すぎるが、僕たちレベルでも無駄金と言うのは少なからず無いだろうか?

例えば僕で言うと、この前のインセンティブボーナスの金額がまぁまぁだったので、BEAMS Fや伊勢丹メンズなど、20代のサラリーマンからすると背伸びしすぎなくらいのお店でスーツやジャケット、靴を買った。

その時は、僕は得意な気持ちになってよく着用していた。しかし、今はもはや着るのも履くのも面倒になってしまい、いまやクローゼットにしまって、日の目を見ることもほとんどなく、不良在庫化してしまった。

服だけでなく、日々当たり前のように支払ってしまっているNoteやメルマガなどのサブスクリプションも、本当に必要なのかと言われると、読んでない記事もたくさんあり、無駄にお金を支払っていると言わざるをえない。

こういう捨て金を当たり前のように払ってしまうのであれば、いつまでたっても貯まるお金も貯まらないだろう。少し給料が増えたからといって、ボーナスがもらえたからといって、本当に必要でないものは買うべきでは無い。自分が、何にどれくらい出費をした場合、心身ともに幸せでいられるかのメタ認知をしつつ、適切なお金を適切に利用することが必要なのだ。


お金はフローでなくストックで考える

 

この話についても、基本的には先ほどと同じである。

お金のことを考えると、どうしても「年収を上げるためにはどうすれば良いか」を考えがちだ。これは、「フロー(お金がどの程度入ってくるか)」的な考え方だ。

もちろん、入ってくるお金のトップラインを増やすためのフローの考えかたも重要であることには変わりないが、僕たちはよりお金の「ストック」を意識して行かないといけない。

ストック、つまり余剰金として自分で積み重なるお金がどの程度あるのか?と言うことだ。そしてこのストックは、資産 – 負債 = 純資産 が積み重なったもの、簡単い言うと貯金だ。なので、資産を増やしていくだけでなく、負債をしないことが重要だ。

僕たちレベルでの負債を考えてみると、例えば高いものを買うための分割払い、リボ払いであったり、持ち家を購入するためのローンであったり。。僕自身も、昨年iphoneを買うために二年ローンを組んだので、負債を持っていることとなる。

ストックをいかに積み上げられるか? 可処分所得をいかに上げられるか? を考えることは、年収を上げるだけでなく、やはり日々のお金の使い方に気を遣わざるを得ない。ましては、収入は累進課税、コストカットは無課税なのだ。

与沢氏は、お金を恋人や子供のように思いなさい、と言っている。本当に使うべきところなのか、無駄にお金を放出してはいないだろうか。お金について、自身の子供と同じように真摯に向き合うべきだ、と言うことの暗喩だ。

おそらく、お金持ちの人はそれだけ真摯にお金に向き合っていると言うことだと思う。逆に、お金が一向に貯まらない僕みたいな人は、お金を杜撰に扱っているのだ。

 

 

投資をする

 

ストックを貯めていくことは手段であり、目的ではない。貯金だけでお金持ちにはなれないのだ。貯金=軍資金が貯まったなら、お金がお金を増やせるように投資をする必要がある。

この投資の意味は、何も株や債券、不動産を持つ事だけではない。例えば会社を作って、その軍資金で仕入れをして何かを販売したり、サービスを作ったり、というような広義の意味での投資である。

何に投資をすべきか?は人それぞれのやり方があり、与沢氏も具体的な方法論は述べていなかった。ただ、強いて言うなら、「流行り物に手を出すな」と言うメッセージはあったと思う。

流行り物に手を出すと言うことは、ほとんどの人に認識されてしまい、その投資の価値は無くなってしまっていると言うことだ。
ピーターティールが『0 to 1』で言っていたのと同じで、世の中の隠れた秘密や需要、法則性を見つけ出し、そこに対し答えていくような投資をしていく必要があると言うことだと思う。(ここは僕の理解もちょっと抽象的で申し訳無い)

また、自分が富の源泉に近づいていくような投資の仕方も重要であると述べられていた。

例えば、経済は巡り巡るもので、なにかサービスを提供して時、自分が加えた価値の元になる仕入れがある(例えば、Webサービスを提供する場合は、サーバやコンピューターなどのハードの仕入れだ)。

そして、「結局誰が一番設けているの?」を考えると、より富の源泉に近づいた人、事業者であるのだ。そしてその富の源泉を負荷ぼっていくと、先ほどの例で言うと、結局はネットワーク回線やインフラを提供しているNTT、AmazonGoogleMicrosoft等という話になるし、より広義の投資でいうならば、土地や株式の資本を持っている人という話になる。その利益率を高く確保できる立場にいかに近づけるかということを考えて投資をしないといけないということだ。

 

まぁ、つらつら書いて言ったが、僕はこの本を読んで少なくとも自分のお金の使い方を見直すことになったし(無駄に払っていたメルマガとNote、その他固定費担っていたものを解約した)、お金持ちの人が何か特別なことをしているわけではなく、あくまで当たり前のことを当たり前に日々することで資産を築き上げていることを知った。

 

今まで何度か、僕のブログにも「シンプルなものに本質がある」という旨の記述をしているが、お金についてもシンプルさが複雑性に優っているのであり、どこを見渡しても、シンプルイズベストという法則が正しいものに思えてならない。

忙しさの弊害と唯一の処方箋

今、僕の頭の中に起きていることを書く。

まず、事実として、僕はこの最近まじで忙しくて余裕が無い。
営業のときは、コンペ前の数日間、毎日朝3時まで提案書を仕上げる、という最大瞬間風速的な忙しさは経験していた。

ただ、ここ数週間は、最大瞬間風速とまでは言わないものの、それなりの忙しさがずーーーーと続いている感じだ。

特に昨日までの一週間はかなりの密度で、さすがに昨日何をしたかは覚えているものの、一昨日にどんな業務をしたか、どんなMTGで何を話したかは全く覚えていない。

果てしなく続く数多のMTG、忙しさの中で沸き起こる苛立ち、苛立ちにより吐出する感情、そして感情同士のぶつかり合いによるさらなる消耗、、、、

そんななか、今日は土曜日かつ天気が良いので、良いインプットとアウトプットのゴールデンタイムだ!!ということで、読みたかった本を読んだり、この忙しさの中で感じたことをブログに書いたり、、ということをしようと思っていた。

ただ、何も頭に入ってこない。そして、そう簡単に文章が書けない...

 

こんな経験は初めてだ。昨日も10:30に床につき、6:30に起きたので、8時間という十分な睡眠を取っているのだ。

ただ、本を読んでも、全く頭に入らず、文字を追うだけだ。。。
そして、今ブログを書いているが、正直頭を使わず、ぱっと思っていることをただつらつらタイピングしているだけだ。。

おそらく、この一週間の業務量と、それによる感情の消耗により、僕の頭が本能的に、「それ以上の情報を持ってこないでくれ!!」と言っているのだと思う。

 


冒頭での、営業時代の話。
コンペ前の資料作成は、やはり生易しい時間ではなくて、毎日早く寝たい欲求に打ち勝つために半ば「根性論」でパソコンの前に座り、「細部に神は宿るのだ!!」と心の中で唱え何回も何回も同じスライドのページを読み込み。。


それはそれで辛いのだ。僕と同じ、早稲田大学高等学院出身の者は、学院の期末試験前1週間を思い出してほしい。まさに地獄だっただろう。それと同じくらいの地獄だ(実際にはコンペ前よりも学院の期末試験前の方が僕的には3倍辛かったが、、、高校生で元気だったから乗り越えられた)

ただ、今直面している辛さは、少し性質が異なるものなのだ。
学院の期末試験やコンペは、どちらかと言うと「体力の消耗し合い」。今の僕の状態は「精神の消耗し合い」だ。

体力は寝れば回復する。しかし、今理解したのは、精神は寝ても回復しないということだ。これは厄介だ。寝ても回復しないなら、どう回復すれば良い?

忙しくなると、僕は少なくとも「自己中」になる。
この忙しさを周り、社会のせいにしてしまい、自分を「悲劇の主人公」と思えてならなくなってしまうのだ。

自分を「悲劇の主人公」として捉えると、周りを「自分を陥れる敵」と思ってしまい、自然と自分が発する言葉、態度が攻撃的になってしまうことに気づいた。その態度や言葉は、自分のことを守っているように見えながら、それは自分自身をさらに深い穴に落として入れているだけであることに気づいた。

そして、多忙な組織は、そのような「悲劇の主人公」が複数人いて、「誰が真の悲劇の主人公か」を決める争いの中で消費・消耗する精神エネルギーは半端ではない。正直、誰の得にもならない。

今僕も悲劇の主人公になりつつあるなか、唯一処方箋とも言える、この状態を脱するために心がけているのは「それでも相手をリスペクトすること」だ。

もちろん、僕は人間ができていないので、「相手をリスペクトすること」を心がけつつ、できていないことがほとんどだと思う。

自分の立場から考え、受け入れられないものに対して、チャットでも相手を威圧し、ロジカルに攻めてしまいそうになる。

しかし、そんなとき思い出したいのは「相手は別に僕を傷つけようとしているわけでは無い」ということだ。

相手は、僕と同じくらい忙しく、それでも相手の中の正義を主張しているにすぎないのだ。僕を陥れようとしてもなければ、組織を悪い方向に向かわせようとしているわけではない。


この忙しさの中で、どれだけ相手への思いやりをもてるか。それが、忙しさのなかでも精神的な充足を得るための鍵であると思う。

ロジックは本で学べるが、こういった意味での思い遣り、そのための想像力は人からは学べない。経験するしか無いのだ。

そういう意味では、今この死ぬほど忙しい日々は、僕にそういた想像力を与えてくれるための試練と機会ではないか。

そういう開き直りだけで回復できるようなダメージではないが、少なくとも、少しでもこの時期、経験が自分の中でプラスになるように、、

そう思いながら、また月曜日から働いていくのみである。

 

コミュニケーションの中で「相手を立てる」ことの意味合い

今僕は勤めている会社にて、営業現場第一線から一歩退いた場所にて仕事をしている。

広く一般的な言葉を使うと「営業企画」という立ち位置だ。営業が営業するものを「建て付ける」ことが主な業務内容となる。

この「建て付け」という言葉が、2年目くらいまでは全く理解できなかった。正直言って、少し抽象度の高い言葉だ。

「建て付ける」ことを簡単に説明すると、「仕組みを作ること」である。
「こんな価値を世の中に広めたい」という、事業の0→1が出来た段階で、建て付け(仕組みづくり)が始まる。じゃあその事業の付加価値を、営業現場で売れるようにするためには、どうすれば良いのか、という問いのもとに業務がスタートする。

具体的には、対外的にはマーケティングの4Pを決めたり、社内的にはバリューチェーンを通した業務のフローを整理して、その仕組みを整えたり、、である。

このような、社内外的な仕組みづくりは、企画グループだけではできない。上記に4Pという言葉が出てきているが、それはつまるところ、マーケティングだ。マーケティング部門はもちろん、実際の営業現場での声を聞かないと、お客様に訴求できる事業が作りようがない。付加価値の品質のコントロール、保証のための技術部門との連携も不可欠だ。

そして対外的には、バリューチェーンを通した業務フローを整えるために、購買や最終的なお金の計上・請求を司る経理等、コミュニケーションをしないといけない関係者は多岐にわたる。

このような、様々な部門との連携が必要な業務を進める中で、生命線となるのはいわゆる「コミュニケーション力」である。

コミュニケーション力は、僕はこのブログでも再三に渡り「相手の考えていることや要望を理解し、適切な対応をしていくための想像力」と定義している。

相手の考えることを理解するためには、相手の人間性だけでなく、部署や部署内での立ち位置、その部署がどういう方針を打ち立てていて、それに対して当人はどのようなスタンスか。その人はどのような専門性をもち、どんな視座にてコメントをする人なのか、等それなりに考えないといけないことが多い。これだけでぶっちゃけ超大変だ。

しかし最近、コミュニケーションについて、重要な別の要素も存在することに気がついた。

それは、「相手を立てる」ことだ。

相手を立てるとは、僕なりの理解を言うと、その相手の重要性や価値を伝えてあげること、感じていただけるようにすることかな、と思う。

この、「相手を立てることは円滑なコミュニケーションに不可欠」説は、ある前提に立っての見解だ。それは、「人間はやはり自分が一番かわいい生き物」ということ。

僕ももちろんそうだ。褒められると嬉しいし、自分が組織の中で重要なんだな、と感じられるときはこの上なく幸福感がある。この自己肯定感により幸福を感じることは、人間として本来備わっている性質なんだと思う。

なので、相手を立てること、すなわち相手が自分自身の重要性を感じられるようにすることというのは、ただ連携して業務をするだけでなく、相手がその連携についてポジティブに感じてもらうのに必要不可欠なのだ。そしてそのポジティブな感情が、仕事の成果を上向かせることは言うまでも無い。

では、どうしたら相手を立てるコミュニケーションができるのだろうか。それがやはり難しいし、僕も全然自分自身で出来ているとは思わない。

なぜ難しいか。それは、心の底から相手を思い遣る必要があるからだ。

「あなたには僕ができないこんなことができて、それが心の底からありがたいと思っています。」というのを、嘘偽り無く自分が100%本気で感じていないといけない。本気でない言葉は、相手に嘘だと気づかれてしまう。

相手の価値を100%偽りなく感じることは、正直そう簡単ではない。これも「人間は自分がいちばんかわいい説」の前提に立つと、どうしても「自分のほうが優秀」と思いたくなると思うのだ。自分が一番優秀だと思っていると、相手の価値を100%信じることはそう簡単ではない。

だから、この相手を立てるということは、「自分自身だけだと至らないことだらけだ」という、人間の通常の感情からは超越した、高次元でのメタ認知が必要になるのだ。

このメタ認知をされている人は、やはりコミュニケーションが上手だ。相手に嫌な顔ひとつされず、業務の連携ができ、プロジェクトを前に進めてしまう。

ブログを書いてていあらためて思ったのだが、コミュニケーションというのは、ただ話上手ということではない。

相手を思い遣ること、そしてれをするために、自分自身を理解し、自分の至らなさ、弱さを噛みしめることが先立つのだ。

コミュニケーションとは、そのような自己と相手の認識が織りなす、人間一人ひとりがにより構築される「アート」なのではないか。そう思うのだ。